そういえば、引用の主従がどうたらとかもめるのはJASRACが主要因か?

引用なんて好意で許されているんだから取り立てて自由を叫ぶ権利があるとは思えない(大意)として気を吐いている人がいたり、Tumblrで引用の要件を満たそうと頑張ってる人がいたりするわけですが、主従要件なんてねーよ、見たいな話(判例・引用・tumblr - 半可思惟)もあるくらいで、そうはいっても引用と転載の境目は(統一的な基準では決まらないけど、個々の事例で誰かが最終判断を下す程度には)あるよね、という話なんだろうからややこしいのだけど。
ことさらに主従関係がどうとか言っているのは、僕の良く知っている例で言うと、JASRAC管理下の著作物についての歌詞の引用だ。マンガでもよくJASRAC許諾が書かれているけど、あれ、大抵は引用で片付きそうなんだけど、JASRACの要求(なんて本当にする権利があるのか誰か最高裁まで争ってみて欲しいけど、無駄な労力だと思うので望めないですな)が面倒なのでああなっているんだろうと思う。
著作権コラム第六回に書かれている事例とか(リンク先がなくなっていますが、jumpにあります)は、強くJASRACに引用の要件を満たすという主張を行ったらやりとりの後、向こうが黙ってしまった(暗黙に引用を認めた?)という感じですが、ちょっとした批評にも全て利用料を払え、という態度がいろんなところでやりとりされた結果、引用の主従関係というのがことさらに強調されるということになっているように思えます。
もう一つ、事例としては小林よしのりが、マンガのカットは一コマたりとも無断引用は許されんと訴えて負けた例。このあたりの話は「藤田嗣治絵画複製事件」というやっかいな事例があって、なんともかんともなんだけど。まあ、絵画は単独で鑑賞に耐えるものであるからってことでネットオークションのサムネイルすら問題になったりするわけだけど。絵画とデジタルメディアの件についての僕の見解と著作権のありかについては所有と共有 - novtan別館で書いたこととコメントにあるとおり。
このような話もあって、主従問題ってのもそうだし、引用の要件ってのも色々とあるわけだけど。
でも、著作権ってのは元々何事かを制限するための法律で、大陸法英米法でイメージが違うものではあるけれども、そもそもの発端としては、「自由に印刷することを契約的に縛る」ことの根拠の為に考えられたものだよね。まあ、著作者ってのが特別保護される(元々は保護されるのは著作者というよりそれで商売する人なんだけどね)ってのはわかる。価値を創出する人が保護されるべきだよね。
じゃあ、引用は制限されるべきなのか。個人的な見解としては、そもそも著作権で守られるべき範囲自体、極限られたものであるべきで、その利用について過剰な制限をかけるのは建前上の文化の発展に寄与するという点ではマイナスであると思ってる。こっちも商売だからふざけんな、とかだといっそ清清しいんだけど、そうじゃないからねえ。歌詞とかだと短いから引用なのか転載なのかわからなかったりするのは問題だけど。まあ、このエントリは僕の見解を示したいというよりは前述の事例の紹介が主なので深くは突っ込まないでこの辺で終わります。最近どうも眠くていかんのです…