僕があんまり罵倒しないわけ

自分がそのとき思っていた考えが何かによって変わるなんて当たり前のことだから、馬鹿とか雑魚とかそのとき思っても言わない。後で謝りたくないもん。面倒だから。当事者同士だったら簡単なんだけど、観客とかいるかどうかわからないサイレントなんちゃら向けに謝るのは苦痛。逆に、謝ることを前提に罵倒しても良いと思う。これは単なる趣味の問題だと思う。言われるほうはそうじゃないかも知れないけど。
僕は批判も罵倒も賛同も、全部が何か大事なことにつながると思っていて、それがなんだかよくわからないから満遍なく許容したい。感情的な対立をいつまでも持ち続けるのであれば、わざわざネットで匿名で書く意味もない。
でもさ、罵倒するにしろしないにしろ、存在は全肯定したいんだよね。居てもしょうがない奴なんていないし、どうしょうもないなこいつみたいな考えに当たったとしても実は間違っているのは僕のほうだったりするし、そうじゃなくてもものの考え方の一つの形は見えるわけだし、面白いこといっぱいあるよね。
ある部分を認め合った上で対立し続けるような関係ができたら、罵倒しても良いかなって思うことはある。それは現実の関係ではそんなに稀でもないんだけど。文章以外の部分が色々見えるからかな。
人のいろんな引き出しをこじ開けてみるような試みは、だから面白いと思うんだよね。なんとか派みたいなミクロな分類じゃなくて、もうちょっとトータル的な、ダブルスタンダードがどうとかそういうのを超えたところでの理解とか。そういうのって、実はちょっと触れただけで通じちゃうような人も居て、それが双方でわかっちゃうような出会いは幸せ。そうじゃないと、わかっちゃったほうが変に頑張っちゃったりして。
根源的な部分であわない相手ってのも居るし、そういう人とは逆に文章だけでお付き合いができるのがウェブの利点だったりもする。そういう人にはできるだけ感情をぶつけたくない。だから、ファーストコンタクトであまりそういう行為はしないようにして。
書けば書くほど抽象度を増しそうだからこのくらいにしておこうかな。