何がキモいってキモいキモい言うのがキモい

釣られておく。

大多数の自分の承認欲求や自己顕示欲を当然のことのように肯定できているブロガーたちの中にあって、それがうまくできない僕は、(少なくともブロガーの中では)少数派に属する、と。そりゃあキモいわけだわ。納得。

ブログ | 住 太陽のブログ

元のエントリもそうだけどさ、他人に向かってお前らのやっていることは承認欲求や自己顕示欲の賜物だ(オレモナー)と言い放つことがそもそもキモいわけで、更にその括弧の中の自虐がキモいわけです。そして、そのことについて自覚的で客観的な俺キモカッコいいと言っているようにしか見えない。大体ブログ書いている時点で肯定しているわけですよ。その肯定している自分を更にメタに見てキモいって言うような行為はどう考えても承認欲求や自己顕示欲を当然のように肯定している。構造的にそう受け取らざるを得ないわけです。そして、大抵の自覚的な人は、多数派とか少数派以前に幾度となくそんな疑問を通り抜けているし、無自覚な人は、あるいはそんなものを必要としていない(単にウェブは置き場に過ぎない)人は、気にも留めない。もしキモいことをメタに見るようになったときは、今停滞している自分、と言うものにもっと自覚を持つべきだと思う。
その後の部分で「多くのブロガーにとって、ブログを書くということがそうキモいことでないなら」って言っているけれども、結局のところ、キモいかどうかは視点の問題に過ぎない。そして、僕だってそうだけど、ブログを書く全ての人は、その視点から見たら十分にキモい。「えー、マジブロガー!?キモーイ。ブログが許されるのは以下略」なわけです。その視点を持ち続けることは大切なんだけれども、そこに固執するって言うのは、大人になっても味覚の変化がないような、あるいは過剰に潔癖症で他人の息がかかるのも嫌がっているような、自己と言うものを過剰に意識して精神的な壁を張り巡らせているような、そんな行為にも思える。
向き合わないってのは、目をそらすということではない。更にもう一つメタな段階まで視点を進ませれば、自己承認欲求のキモさなど物の数ではないし、文章を書くということにとってもっと大事なことはいっぱいある。およそ私小説を書くこと以外で自分のキモさに真正面から向き合ってのた打ち回るなんて必要はない。