派手な物言いは必要だけど

もうちょっと言葉は選んだ方が良いかなあ。

佐藤守氏は自分の記事のコメント欄に投稿されたこの意見を見て、トラックバックを消した模様です。正直、この事を知っても、怒りよりも哀れみの感情しか出て来ないです。佐藤さん、「言論封殺、危険な兆候」と訴えておきながら、自分に対する異論反論を封殺するんですか。

言論封殺に懸念しておきながら自分への反論を封殺した元空将・佐藤守の致命的な矛盾 : 週刊オブイェクト

ブクマコメントでも書いたけど、トラックバックをどう扱うかはこっち側の問題であり、コメント承認制とかトラバ承認制もこの考え方に従えば言論封殺になってしまう。そうじゃないよね。あくまで自分の管理下にあるコンテンツに何を載せるかは、管理している人が選択できるのだ。トラバが自由に出来るということと、したトラバが必ず残るということは等価ではない。
言論封殺というのであれば、それはトラバ元のコンテンツも封殺してしまうこと。封殺というのは社会的にないことにしてしまうことだよね。つまり、インターネットから消せ!という圧力によって存在を圧殺された言論であれば封殺だ。でも実際には当該エントリのトラバが削除されただけであって、検索したりすれば出てくるだろう(もっともその点では申し出によるGoogle八分にまで到れば完全に言論封殺出来ているわけではないけれどもその意図は十分に認められる)。
トラバを消すなんてのはある種の人にとっては日常茶飯事である。自分の意見に対して都合の悪い反論を見えないようにする、というのは正直ろくな言論人ではないと思うけれども、一方で、ろくなことを書かない低俗なブロガー(僕みたいな)が愚にも付かない反論をしてきてトラバ欄が穢れる、という人もいるだろう。それはそれでポリシーとしてはおかしくない。そのあたりは客観性なんてありえない(デタラメも言っている人は真剣かも知れない)ので、正しい削除と正しくない削除などない。
というわけで、この手のことに文句をいっても全然意味がないと思うんだよね。全くトラバを削除しなくてデタラメな反論ばっかりあるようなトラバ欄がスタンダードなんだよ、というのもなんだかなと思うし。
もちろん、このエントリは佐藤氏が自分に対する意見を公正に扱っているかどうかの評価をするものではありません。