「俺は責任をとってブログを辞めたりしないっ!」

id:kyomoeさんとイケハヤの不毛な戦い…戦いですらないか。死ぬとは、殺すとは、責任とは、ということについて深い含蓄を得ることができる。

自分がその表現を使う理由を説明できないようなら、言論プロレスなんてやる資格ないと考えますが、いかがでしょうか。自分が振り回している武器の殺傷能力は、正確に把握して下さい。

kyoumoeさん、ブログを辞める必要は全くないですよ。 : まだ東京で消耗してるの?

これを読んで「うんうんそうだよね」と思う人は、「死ね」という言葉面にとらわれてkyomoeさんの言いたいことを読み取っていない。kyomoeさんはその表現を使う理由なんて360度全方位から説明しているし、やろうとしているのはプロレスじゃない。なぜあれほど「相手を選ぶ」と言っているのか。それは、言葉の殺傷能力は相対的なパワーだからということに尽きる。逆に言うと「強い言葉を使わない」ことはなんら免罪にならないということでもある。全ては相互コミュニケーションであり、意見の開陳における無責任の標榜こそ罪だ、という認識が僕にはある。
違う言い方をすると、そこに言葉の使い方による免責特権は存在しないということ。

そりゃね、素手と戦車のどちらが殺傷能力が高いか、ということは明らかだけど、だから素手は安全なんですという主張はナンセンスなわけ。衛星軌道上にいる人に戦車は無力だし。相手を吟味して言葉を選ぶ人間と、言葉の殺傷能力が低いからという理由で無差別言論テロを肯定する人とどちらが一般的に言って危ない人間かは(そういう風に言われれば)明らかだと思うんだけど、そのことに無頓着であるのはそれこそ原罪を越えた意識的な罪であると思う。
自分がやられることについて肯定的なのはいい。サンドバッグになりたい人が自分に向けられた他人の殺傷能力に文句をいうことはないだろうし。でも、自分がやることについて「俺は大丈夫」的な肯定をしているのは非常にいただけない。結果として、ブロガーをブロガーとして殺すためのパワーがあることを証明してしまったわけで。

そのことについて

とりあえずお茶でも飲んで落ち着いてください。

kyoumoeさん、ブログを辞める必要は全くないですよ。 : まだ東京で消耗してるの?

ですよ。文脈的に言ってこれ以上殺傷能力のある言葉はあろうか、いや無い(反語

…ええと、つい古いネタが出てしまったが、こんなに人を小馬鹿にしたセリフが言葉の殺傷能力を気にする人から出てきてよいものであろうか。実のところ、気にしているのは表面的なイメージのみであるということがここにも現れている。本当に言葉の殺傷能力を純粋に言葉面について気にかける人は他人に対して社畜だイナゴだ仕事のできない人だなどとは言わないものである。もっと言うと、そういう人はウェブで発言することは怖くて出来ないのではなかろうか。

無闇矢鱈と強い言葉を使って他人を批判することを肯定している、というわけではない。使わずに済ますに越したことのない言葉は沢山ある。でも言葉の殺傷能力はむしろ文脈にこそ依存している部分が強いし、それに無頓着である上に責任も感じないという人間は正直言ってウェブで何かを発信する資格が無いのではないか?