好きの境目
分裂先生のエントリがいつになく盛況ですね。日本語の好きはかなり文脈から独立した複数の意味を持ちがちで、よほど意味を限定して書かないとlikeなのかfunなのかloveなのかわからないこともあるかな。
しかし、僕がいちばん気になったのは、「自分が何者でもないからありのままに楽しむことができる」というくだり。確かにスーパークラス「人間」に実装されている楽しむメソッドを自分の嗜好でオーバーライドしているのかも知れないけれど、本当は違うメソッドで、ただスーパークラスのメソッドを忘れてしまっているだけかも。あるいはsuper()を書き忘れたとか。
僕は梅田氏の本を読んでなかったので、そこで語られていることの解釈はできないけれど、好きを貫くという言葉から単純に発想するのは、貫くって難しくないよなあってことで。いやね、確かに冒頭で書いた好きにも色々あるってのが問題ではあるけれど、好きなら現実としてどういう形でそのことに関わっていくかを考えれば、可能性は広がる。どうもあのエントリは、好きに縛られた故に書かれたようにも思えてしまう。
そもそも生きていくって、好きとか嫌いとか、そんな単純なものじゃないよね。逆説的かもしれないけど、だからこそ、好きという気持ちを生きる原動力にしたいのだよね。それが仕事である必然性はないけど、人生である必然性は十分にあると思う。