続・「いい話」は思考能力を奪うよね

前のエントリにもキーワードとしてちりばめてあったのでわかった人はわかったと思いますが、あそこで言いたかったのは2点。

  • いい話であるという理由でおかしいことを誤魔化されてはならない
  • 得体の知れない「人間性」によって思考が制限されてない?

ってところですね。ありていに言えばニセ科学批判だったり歴史修正主義批判だったりするわけです。
エンターテイメント的文脈の上にある「いい話」ってのは、その「いい」部分を思う存分受け止めることが目的ですから、上記の批判は当てはまりません。ただ、そこにもし批判があるとしたら「なんでこれをいいと思わないの?」と他人に問いかける行為。感受性が人それぞれであることはもはや疑いが無い常識として認識しておかなければならないものではないでしょうか。現代人としてはね。
で、そういう文脈ではない、別の目的がある文脈の上で、いい話が出てくるというのは罠の可能性が高いわけです。いい話に感動した感受性ではなく、科学的思考を適用すべきなのです。例えば、「確かにおかしい気がするけどいい話だから信じたほうがロマンが有っていいよね」みたいなのは、「いい話」によって検証すべき点が隠蔽された、場合によっては消極的な承認を得たとまでいえるのではないかと思ってしまいます。
命題が何かを見抜くってのは結構大事で、結構難しい。