ニセ科学批判が成し遂げるもの

ニセ科学批判なんて意味ねーんじゃない?という話。

そもそもニセ科学批判活動の効果というものは、測定したり検証したりできるものなのだろうか? 有効かどうかもよくわかっていないものを、彼らは“いいと信じて”やっている、ということなのだろうか? もしそうだとしたら、それって、彼らが批判するものたち(たとえばホメオパシー)と、その点じゃたいして変わらなくね?って思ったんだった。

2009-02-18

こういう意図的な混同を行って可能性をアピールするのがニセ科学だな、と思ったりします。典型的なニセ科学的発想ですね。
ニセ科学が「有効かどうかわからない」ものを「有効だと信じて」主張しているだけならまだよいのですけれども、「科学的に有効であると偽って」主張しているからニセ科学なんですよね。たとえば、「霊験あらたかである」というのが嘘っぱちだったからと言って科学が責任を負うことはない。もちろん、科学を信じるのかどうか、という点では科学を信じてほしいと思うことはあります。が、科学を信じたつもりで裏切られるよりもだいぶマシ。
んで、ニセ科学批判の効果というのは、残念ながら直接的にすごい効果が見えるものではないでしょう。でも、科学的であることを判断基準のひとつにおこうとしている人に対して、考えるためのデータや筋道を与えることが出来る。水伝なんかは論外だけど、水からの電源(あれどうなっちゃたんだろう。肯定的なニュアンスで報じた報道機関や議員は責任を感じるべきだと思うけど)とか、ホメオパシーとか、ある種の統計操作とか、生データやデタラメな理論であることを示唆することで、判断材料を増やすことが出来る。
ニセ科学批判ってのは、本来「ニセ科学」批判という大雑把な概念ではなくて、「科学的に間違っている主張」のケースごとの批判の集まりに過ぎないはずなんだよね。主張それぞれに対して、問題がかなり異なる。荒唐無稽な理論もあれば、理論的にはきちんとできているけど、おかしな(捏造している)データで人を騙すものもある。
そういうのが判断できる材料が、ニセ科学と同じだけ人の見えるところに存在できる、というのがウェブ時代のよいところでありますね。あと、反論コストが低いということで、ニセ科学を使用した「商売」はやりにくくなっているはず。今までは、宣伝活動に対して否定的な見解を一般に対して示すのはメディアか公正取引委員会がやるくらいしかなかったけど、メディアは「暮らしの手帳」みたいな広告とらないところじゃないとなかなかそういうことできなかったしね。
ウェブ時代になってニセ科学批判があふれるのは、今までの科学者たちのフラストレーションが一気に解消されるという事象なのかも。
ついでに。

南アフリカHIV否定論というニセ科学を権力が信奉することで、結果的に万単位でヒトが死ぬことになるでしょうにゃ。他にも、ルイセンコ学説というニセ科学ソ連が採用したために飢饉が起こり、だいぶヒトが死んだという話もありますにゃー。

ニセ科学でヒトは死ぬ - 地下生活者の手遊び

絶対がない政治というやつに科学をきちんと導入するのって結構難しい。歴史を紐解くと、政治を占い師が左右したことは結構ある。実現困難な科学的手法より、比較的楽な説明を信じてしまったり、言い訳のために導入したりする、というのはよくあることですね。
政治家がニセ科学的商売に手を染めることもよくありますな。
ただ、そのときの科学ではっきりわかっていなかったもの、というのは評価が難しい。また、可能性で判断しなければならないものの最後の決断に占いが入り込むこともまた排除しがたい。
政治家が自ら判断することを回避しもっともらしいことに逃げ道を見つけたり、もっと悪いことに、あからさまなニセ科学を判断することができない、というときにわれわれができることは、科学の啓蒙ではなく、バカを政治から排除することでしかないのだろう、残念ながら。でも、科学的思考をみんなが身につけることで、バカバカだと判断できるようになるかもしれない。もっとも、バカを利用する人がうまくやってしまうと余計にまずいことになる。

科学はそんなに人から搾取しないけど、ニセ科学は特定の誰かが超え太るんだよなあ。

追記

科学でも人は死ぬよ、という反論がある。確かに、科学を「利用して」殺人兵器は作られるし、あまたの人類滅亡SFが危惧するとおりに科学が暴走することも考えられる。
善を成そうとして悲劇が起こることはままある。騙されて、あるいは単純な思い込みによって死ぬのよりマシだと思うけど。でも、科学も単純な思い込みで重大な考慮漏れが発生したりするんだよね。