言説の正否でニセ科学を判断するのはよくないのか

ちょっとこれはねえ。

結論が間違っていても科学の体裁をとっていれば批判されるべきではない、というのはやっぱりおかしくて、結論が正しいかどうかを科学的に検証した結果、間違っていたら間違っていた、というのが科学なんだから。
結論否定をショートカット的に行う(あまりに科学の要件を満たしていず、かつ、従来の科学で証明されたとされている事項とあまりにかけ離れている場合、科学的検証結果の提示がなければ結論のみを否定することは可能である)ことはあるかもしれないけど、それが批判の主たる動機になるということはあまりないよね。
言説の正否を問わないのであれば、そもそも科学かどうかを論じる必要が無い、といえてしまうと思うわけです。つまり、ニセも何ももとより科学ではない。でも、科学だって言う人がいる。だから、言説の正否を明らかにする科学的プロセスを採用して、言説の正否によってその説が科学的かどうかを検証しなければならないわけですよね。
その結果として、「血液型性格診断は科学的根拠が無い」との結論に対して「いや、ある」といってしまえばニセ科学
ニセ科学と言ってしまったら悪いのは、データを集めて反証した人の科学的態度に対してであって、血液型性格診断そのものに対してではありませんよね。なぜそこが混同されるんだろうか。

というか、ニセ科学ってのは、その扱う対象そのものに対する批判ではないんだよな。あくまで、それを科学的に検証しないのに科学だと言い張ったり、間違った手法で検証した結果を科学的だと言い張ったり、そもそも科学ではないのを知りながら科学だと言い張ったりする態度のことをいうわけです。科学の要件を備えた検証方法により、正だと判断されることは科学的に「証明された」と主張するための最低限の要件です。
逆に言うと、仮に検証がなされるまでは「科学かもしれない(つまり、ニセ科学とは言い切れない)」ものも検証の結果によっては科学ではないと結論付けられる。そして、その後もそれが科学的だと言い張る人がいて初めてニセ科学のレッテルを貼られることになるわけです。先に述べたとおり、検証は時としてショートカットされますが。この期に及んで天動説を主張する人はいないけど、水は言葉を解すると主張する人がいるのはなぜなのかなあ。
もちろん、科学も万能ではないので後世になって逆転科学化する事象もあるでしょうけれどもね。でもそれは検証方法と結果が進化したからであり、科学の勝利の一つです。将来の可能性を考えすぎて今の検証方法と結果を信じられないと、科学には一切正しいことは証明できない。その将来の可能性をかけらも信じないことは科学的態度ではないといえるかもしれません。