重要なのはニセ科学と科学の判別そのものではないとは言え

少々苦しい展開。

科学における間違いは、間違いとわかるまで(正確に言えば社会に妥当な水準でその真理と虚偽の合意が受け入れられるまで)は、ただの科学であり、それ以降は、たんに間違いであり、科学ではなくなる。
ニセ科学」を間違った科学と別に定義を必要とする理由が、単純にわからない。

江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか - finalventの日記

端的にこの点だけについて述べれば、単純にニセ科学の定義そのものがすりあってないというだけ、という印象。
僕が常々「トンデモ科学とニセ科学は違う*1」と言っている意味でのトンデモ科学がid:finalventさんのおっしゃるニセ科学であると解釈しました。そういう点では確かに上記の記述は正しい。正確に言うと、虚偽ではなくあくまで仮説であるのですが。あえて上記の文章に誤謬を見つけるとすれば、まさにその虚偽か仮説かがニセ科学とトンデモ科学を分けるもっとも重要な点であり、そう解釈すれば上記の文章は完璧に誤っているのだけれども、そこまでの文脈があるとは思えなかった。
とはいえ、上記の文章は以下についての反論として書かれたものです。

現在行われているニセ科学批判において、もっとも端的な「ニセ科学」の定義は以下のようなものになる。
科学を装っている
科学ではない
これを批判するのが「ニセ科学批判」であり、それ以上でもそれ以下でもない

わかってないのに「わかってしまった」人 - Skepticism is beautiful

これがわからないといって上記の文章を書くということは、つまり、自然体でニセ科学とトンデモ科学を同一のものとして受け入れてしまっているのではないかと推察されます。だから、もやもやとした形でid:finalventさんが理解している分には特に問題がないんだけど、それをニセ科学にとっての一つのアプローチとして発表されることはあまりよろしくないんじゃないかなあと思うんですな。仮説が仮説の域をでない「トンデモ科学」と、科学を装っている「ニセ科学」の違いはそれを正確に述べようと思っているのであれば実に重大です。
そういう点を踏まえて考えると、ちょっとこれはどうかと思うんですな。

ニセ科学批判」については、シンプルに私は誤解していたなというのはあります。科学論とかの話ではなく、市民運動なんだな、ということです。これは誤認していました。自分が悪かったなと。悪い分の責めは受けるべきかな、と。

江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか - finalventの日記

これはどうも勝手に誤解の誤解をしているようにしか思えません。

繰り返しになるけど、僕は科学的な知見に基づいた「トンデモ」は「わろすわろすwww」とは思えども、ニセ科学として切って捨てることはないと思っています。当時の科学的知見を駆使して書かれたSFなんて今読んだらただの荒唐無稽な笑い話でしかなかったりするけれども、その当時の一般的な科学知識を踏まえて読めば素敵な未来のお話になりうるわけですし、場合によっては、未来の姿を正確に言い当てていることもあります。しかし、当時ですら科学的にありえないことをさも「もしかしたらそうかもしれない」として書かれたものは批判に晒されています。

執拗に理論に合わないSFを責めるクラークの思い出の中でも「月のクレーター」に対する仮説が二転三転してクラークが全否定した仮説が実は真実であったことが語られています。しかしそれは「ニセ科学」が「科学」に昇格したという話ではありません。観測が進んだことで新たに出てきた傍証から理論が再構成されただけであり、客観的に観測されたものに対しての仮説ではなく、デタラメな仮説ははなから相手にされていなかったのです。科学的な仮説対仮説の真実性が証拠の多少によって右往左往しただけ。
SFの「サイエンス」の部分を楽しむには、その科学がどのようなものであるかを意識する必要は余りないんだけど、批判するには確かな科学知識とその時代ごとにおける知見が必要ですね。ただ、SFは「科学っぽい」だけであることを自覚した疑似科学(単に「っぽい」というよりはこの地球の法則とは設定を変えた前提での「科学」のほうが多いかも知れないけど)を楽しむものかも知れませんけれども。これは余談。
水伝があれだけ多くの批判を浴びた一方でそれなりに受け入れられていることのまずさを理解しているのであれば、ニセ科学批判を市民運動とは口が裂けてもいえないと思うんだけど、id:finalventさんが「科学的知見を問う問題」を出した結果としてそういう理解をしてしまったのであれば、残念でなりません。