かわいそうで解決するなら美しいですけどね

どうしても「自分はそんな選択に晒されない」という仮定で論争しているよなあ、と思ってしまうのです。

そんな選別をしたら捨てられる側はたまったものじゃないですか。

あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系

「リストラは悪だし弱者切捨ての医療改革は覆されるべき!って話だよね…だってかわいそうだもん」って言っているように思えてしまうのです。

人の命は算術的な比較が可能であるというゴマカシ。そのような足し算割り算は、いつも権力者が独占するそろばんで行われます。

あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系

会社にリストラさせるのは可哀想だから使えない奴は俺達が追い出そうぜ!ってことかなあ。それとも一緒に踏ん張って倒産すればみんなで同じ悲しみを共有できるぜってことかな。

「もう助かりそうにない患者」と助かりそうな患者を判別できるというゴマカシ。そのような診断は、おうおうにして自己成就的なものです。医者に「助かりそうにない」と判断されて見捨てられた患者は助からない場合が多い。そうなったら、はたして医者の予言が当たったのでしょうか?

あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系

トリアージとは

人材・資源の制約の著しい災害医療において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定すること

トリアージ - Wikipedia

です。予言レベルの話じゃない。極端に言うと、こういう状況では人間ではなく機械にならないと最大限の効果はあげられない、ということです。助かりそうにないって判断すると助からない場合が多い、というのは当たり前じゃないですか。だって「助けない」という選択をしたんですよ。なぜトリアージが「標準化」なのか。どんなに「全体のため」と思っても「かわいそう」って考えて躊躇してしまうのが人間だから、その感情を涙をのんで我慢するために必要だからです。
トリアージってのは、この「やむを得ない」というのが大前提にある言葉なのですよね。

実際に存在する競争という現象を、そしてそこでの優位劣位を、かわいそうとかかわいそうじゃないとか、善悪とか、そういうものにいきなり結びつけてしまう。それを論じたらなにか成果があるんだろうか。そこで感情を論じずに、どうしたら市場で生存できるかを、対処可能性を論じるのが経営学だよ、百貨店だって、今日を予期して手を打っていたところはまだしもそこまで窮地には立っていないでしょう、と対応はしましたが。
また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。

はてな

win-winって言う言葉がありますが、経営に対してトリアージという概念を持ち出す際にはだから、仕方がない、という前提が十分に説明されていないと理解してもらえないかも知れません。けれども、資源配分の一つの極端な例として持ち出すと言うのは大変わかりやすい。この極限が合って、でも現実の経営はそこまでの極限じゃないから、ある程度、善悪とかモラルとか、そういったものに配慮しつつ、上手く配分していけるか、という話に繋がりますよね。「リストラはかわいそうだからしない」なんていう経営学はないわけで。

「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」と書いてきたお嬢さんもいた。そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。いや、こちらはできるだけ冷静に、穏和に説明したつもりなんだけどなあ。

はてな

という話になってしまうのは、トリアージが何を説明するための話なのかが理解されていなかったからなんだと思います。こういった、いわゆる「小学校の道徳の授業ではできない話」は経営学とかそういった授業の中で理解していって欲しい話ですね。
「かわいそう」が原動力で何かを動かすことも多いです。しかし、かわいそうという感情そのものが既に選択的であることだって多いのです。犠牲になる何かのためにかわいそうの感情を抱けるのであれば、最適化の為に涙をのんでいる人にもかわいそうの気持ちを向けてあげることができるはず。その気持ちをスタート地点にして、できるだけかわいそうと思われる人を出さないようなやり方を考えるっていう方向に向かってくれればよいなあと思います。
トリアージを色々な場面に適用すべきって話じゃないんですよね。