妊娠中のマラソンはご自由に、ただし自己責任で

いくつかの重要な問題を抱えている話だと思う。自己の範囲は胎児に適用されるのか、責任の所在はどこに、等々。

出産を今年7月に控えながら、完走を果たした岡田綾乃さん(36)(東京都練馬区)。3年目でようやく出場権を得て、医師と相談して「無理をしない」という条件でスタートした。

http://www.yomiuri.co.jp/sports/tm/2009/news/20090323-OYT1T00168.htm?from=navr

美談として紹介されていますが、相当のリスクを負った行為であるとは思います。二児目とはいえ高齢出産、しかも6〜7ヶ月くらいか。
もっとも、美談とはいえ、妊娠中のマラソンなどそれおいと真似できるような行為ではあるので妊娠中のマラソンブームなどは起きないと思いますが…

妊娠中にフルマラソンを走りたいなんて相談を受けた医師に同情します。外来をやっていると時々ビックリするような相談を受けますが、このクラスとなると、そうそう経験できるものではありません。おそらく妊婦ランナーは「絶対に走るんだ」の物凄い勢いで相談されたように思えます。最終的に医師に強制する権利はありませんから柔和な医師なら、「無理をするのは子供に良くない」ぐらいの表現で説得したと推測します。これも「おそらく」ですが、聞いた方の妊婦ランナーは、

無理をするのは良くない → 無理さえしなければOK

「いかなる障害も乗り越えてマラソンに出場する」と言う固い意思が充満していれば、これぐらいの解釈に転じさせるのはいとも簡単と思います。

2009-03-25

若干タイトルからして過剰反応気味ではあると思います。タイトルは若干持ち上げぎみではあるものの、読売新聞の記事そのものは、淡々とした事例紹介としてなされていて、もちろん、取り上げたこと自体が賛美だ、という見方はあるかもしれないけれど、愚挙をたたえている、とまではいえないのではないかと思います。

妊婦ランナーを明らかに称賛しています。称賛するという事は、今後この記事に見習って妊婦ランナーが続出する事を称賛するという事です。妊娠7ヶ月の次は8ヶ月でしょうか。臨月ランナーが来年走れば大絶賛する気でしょうか。記者はマラソン取材で「こぼれ話からの美談を作れ」の指示を受けていたのかもしれませんが、愚挙が壮挙に見える感覚に信じ難いものを感じます。

2009-03-25

どうでしょう。世の中の壮挙というものはたいていうまく行った愚挙である、と思わなくもありません。決して後に続くことを勧めているものではないとは思います。
とまれ、ここで述べられている意見は昨今の医療情勢から言うともっともな危惧ではあります。「たいていは」うまく行く、ことにおいて、少ない、しかたない、失敗例に対して、少ない側の可能性が顕現したからと言って医師に責任を負わせようとすることが多い今日この頃ですから。宝くじに当たっても文句は言わないけれど、万が一のリスク部分に当たってしまったら文句を言う、というような話です。感情としてはともかく、社会の仕組みをそれで変えることはできない。
医者が責任を過剰に負わされる傾向があるにしても、自己責任の範囲でなされる行為の制限を行う、という必要性はないのではないかと思います。うまく行かなかった場合に医師が責任を負わされる、ということはもちろんあってはならない。しかし、社会の機能が自己防衛に専念するというのはよろしくない。

1人の妊婦のマラソンは単なる個人的な愚挙かもしれないが。マスメデイアの報道を通じて2人め、3人めの妊婦ランナーが現れたとき、それぞれの妊婦の行動を「他ならぬ妊婦の精神と肉体の問題」と割り切ることはできなくなっているだろう。自己決定論ないし自己責任論を発想のベースに据える人は、この種の問題とどう折り合いをつけるのか、または折り合いをつける必要などないと考えるのか、それも気にかかるところだ。

妊娠中のマラソンは愚挙か権利か? - 一本足の蛸

この問題提起は重要だけれども、単にこの点から言うと、「それぞれの妊婦の行動」は他ならぬ妊婦の精神と肉体の問題に過ぎないと思う。「やめたほうがよいですよ」「なによ、こないだの東京マラソンではお医者さんが許可してくれたって聞いたわよ」という会話は想像に難くありません。「仕方ないですね、無理をしないという条件で…」⇒事故⇒「あなた大丈夫っていったじゃない!!!」という会話がなされないことを祈るばかりですが、これは妊婦の問題ではなく、医療崩壊の問題です。Yosyan先生がなされているこの批判はあくまで医療に打ち込まれる崩壊のハンマーの一つへの批判ではないかと思うのです。
もっと重要なのはこっちか。

この文章を読んで、妊婦に中絶権を認める立場の論者はどのように考えるのだろうか*1、と思ったのだ。
人工妊娠中絶と妊婦のマラソンは少なくとも2つの点で大きく異なっているように思われる。
・中絶の場合は結果の不確実さはほとんどない*2が、妊婦のマラソンの場合はどのような結果をもたらすことになるのかは後にならないとわからない。
・仮にマラソンの結果として流産または死産するとしても、その結果はマラソンという行為の目的ではない。
従って、中絶権を認める議論をそのまま延長して妊婦のマラソンに当てはめて自動的に何らかの結論を得るということにはならない。とはいえ、両者は全く独立だということもないだろう。たとえば海燕氏は、妊婦のマラソンについて果たしてどのような立場をとる*3のだろうか?

妊娠中のマラソンは愚挙か権利か? - 一本足の蛸

中絶が目的ではない、というのは明らかですが、まったく独立ではない、というよりはマラソンを是とする考えが胎児の権利を阻害しているかどうか、という問題なのでしょう。この時点での胎児は母親(あるいは両親)の付属物に過ぎないのかどうか。どこでその生まれてくる権利を疎外する行為が犯罪的になるのか。答えは持っていない。

同業者だから医師を擁護したいのかもしれないけど、本当に問題だと感じているなら、強く制止しなかった医師の方こそ批判されるべきなのではないでしょうか?否、むしろ、同業者だからこそ、医師の方を批判するべきではないかと思う。

妊婦さんが東京マラソンに出場して完走した話。 - コミュニケーションする福が内

わかります。が、その医師が何をどういったのか、は報道からはわからない。Yosyan先生があの記事を見て批判するべきだ、と考えたのは、個別事例の問題ではなく、報道の問題だ、と感じたからでしょう。医師が積極的に勧めたのではない限り、医師は引き合いに出されたという立ち位置の記事だと。同情の念はマスコミ不信の成れの果てに過ぎず、あまりこの問題の核心ではないと思います。

「死を覚悟して」酔っ払え、とか「死を覚悟して」マラソン出場しろ、という物言いは成立しない――医師にそれを言う理由が存在するのは、職掌的な責務から。蓋然的な私たちの生死のゆえに万難を排する責務がこの社会に存在する――医療もその一環としてある。むろん、蓋然をゼロにはできないけれど。そして誰にも訊かれないうちから「いかなる障害も乗り越える」ことに対する自身の覚悟を口走る者は多いが、なら死んでから誰の責任も問われなくなるように念書書いておくように。貴方が「万難を排して」念書書いても遺族は「納得しない」と思うが。

長距離走者の誤読 - 地を這う難破船

ここで示されているとおり、自己責任というのは一見自己で完結するように見えるが実際には完結することは少ない。ましてや、妊婦という自己の範囲が明らかではないものについては尚更。

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出産におけるトラブルで母子どちらかあるいは両方が死亡した場合に医師の責任を問うとすれば、マラソン中のトラブルで胎児が死亡(という言葉が適切かはわからない)した場合、妊婦の責任は問われなくてはならない(また、医師に転嫁されてはならない)、と僕は思うけど、どうだろう。可能な限り生命を尊重するべき社会として。中絶の是非など絡めると複雑だけど。