秋は藁人形の季節

藁人形はよく燃えるから火事になったら大変だね。

私なんかがネット上の誹謗中傷に関して相談を受けることが多いのは,特にネット上で際だつ活動をしていたわけではない人や企業について,匿名掲示板等で執拗にデマが流されるというケースです。

うじうじ君をいきいきさせるには大きすぎる代償: la_causette

これに注力して語れば良いのにね。これだったらまずもって特に実名を必要しない人がリスク回避のための匿名で活動していること自体をうじうじだなんだって中傷する必要ないわけだし。

匿名の陰に隠れてうじうじと他人の悪口を言ったり特定のブログのコメント欄に執拗にそのブログ主や全く関係のない人の悪口を投稿し続けられるようネット社会であり続け欲しいというごく一部の人の要望をかなえる代償としては,

うじうじ君をいきいきさせるには大きすぎる代償: la_causette

まあ実名でうじうじと他人の悪口を言ったりする人が目立つ昨今、匿名の影に隠れて悪口をいう小物なんて相手にされないくらいだと思わなくもありませんが、匿名で悪口を言いたいごく一部の人や、実名で悪口を言うたくさんの人たちに関わりたかったらウェブなど使うべきではないなんて社会にしてしまうのも寂しい話ですね。ん、藁人形か?
大体さ、ごく一部の要望をかなえたくないから多くの人の要望をオミットします、というのはあまり一般的な考え方じゃないと思うんだけど。

「実名を表示すること=売名」みたいな感覚もなんだか別世界って感じです。何かを成し遂げようと思ったら,自分が責任主体として名乗りを上げないといけない場面も多いのですけど,そういう人は匿名さんに中傷されて当然,中傷されたくなかったら社会に役立つ活動などしようと思うなみたいな話をされても,困ってしまいます。

うじうじ君をいきいきさせるには大きすぎる代償: la_causette

これも飛躍していて、そもそも「責任主体として名乗りを上げないといけない場面も多い」のであればその場合だけ名乗ればいいわけであってさ、常に実名でなければならないことの理由にはなってないわけじゃない。当然こういう場合で実名が必要なのはわかる。でも責任を取るってことは間違ったときに非難される覚悟の上でやるわけでしょ。もちろん、いわれのない非難を受けることだってあると思うけど、やっていることが間違ってなければちゃんと応援してもらえるんじゃないのかなあ。
で、そういう必然的に実名が必要以外の場合のことを語っているわけだけど。

ネット上で執拗な中傷を受けたくない人はその種の一部の人に実名を知られないようにひっそりと暮らす人生を過ごすことだ,努々社会の役に立とう等とは考えないことだ,なんて社会にしてしまうのは大きすぎるように思われてなりません。

うじうじ君をいきいきさせるには大きすぎる代償: la_causette

ネットで活動するのであれば執拗な中傷を受けるのは甘受しろと言う事ですね。あれ?違った?だって実名でも執拗な中傷をお互い繰り返す弁護士とか大学教授がいるわけだから、これは匿名が存在することのみで発生するリスクじゃないよね。だったら、実名が必須の場合、中傷を受けるのが嫌だったらネットでは活動できないじゃん。しかもネットで活動してなくても実名から中傷を受けたりするよね。

社会の役に立とうと考えないことだ、なんてそもそも認識からして違っていて、実名でないと社会の役に立てないってほうが少ないんじゃないの?責任主体として実名を名乗らなければならない、というケース以外での活動に対して、社会の役になんて観点持ち込んだら個々の人間なんて所詮無名の歯車でオッケーなんだからさ。

別に現実の名前とネットの活動が繋がる必要がない人にとって、わざわざ中傷のダメージを大きくすることを考える必要ないじゃん。

匿名が回避しようとしているリスクは誹謗中傷にとどまらないわけで、実名の人が誹謗中傷をするという現実もかんがみると、誹謗中傷を減らしたいのであれば誹謗中傷のリスクを上げる方がよいのではないかなあ。何を持って誹謗中傷とするかについてちゃんと納得感のある基準が示されて、冤罪のリスクを十分に下げられれば、であるけれどもね。