書籍はハードウェアなのかソフトウェアなのか

これも何回か語っている話ですが。

恐らく、「本の本質をハードウェアと捉えているか、ソフトウェアと捉えているか」
にあるんだろうな、というのが今のところの結論。

自分のようなソフトウェア側で捉えている人間は、
「本というのは何かしらの情報を伝えることを目的としていて、情報そのものが本質である」
と考えている。

http://arukansoft.net/2012/05/deviceorinfo.html

一読して思ったのは、それは「本」というよりは「文章」すなわちテキストデータの話なのかなということ。というのは、古来からテキストデータは本以外の形態でも流通していた。もっとも原始的なのは口伝。伝達手段として「字」が登場してからは石版や竹簡、紙が登場してからはそのリーズナブルさから紙全盛になり、印刷術の発達でそれがピークに達し、コンピューターの登場によって電子データという新しい世界を得た。
ここで重要なのは、「字」の発明によって言葉をエンコードして固着する、ということが可能になったこと。そして、電子データってのは記録方式に合わせた別のエンコード方式を採用したために、情報の圧縮が可能になった反面、デコードを行わないと人間系だけでは再生できなくなったということ。
字は、人間のハードウェア特性を最大限に生かした情報記録方式で、データさえ記憶できていれば、再生用の別のハードウェアは(大抵の場合)不要。ただし、その特性上目の不自由な人にとっては別の再生方法が必要となる。
前置きが長くなったけど、というわけで、本というのは本質的にはハードウェアの部分であり、電子書籍というのがそのメタファになっている以上、ハードウェア部分から逃れられないということになっている。
あえて引用部分に乗っかるのであれば、齟齬が生じているのは、電子「書籍」というテキストデータ「パッケージ」という言葉の認識である。意図的に混同している可能性もあると思う。販売・流通・著作権あたりを絡めるとね…
さて、本を愛好している人にとっては、そのハードウェア特性というのは非常に大事なことだと思っている。なので、電子書籍は単なるテキストデータであると割り切れないと、そこの議論は平行線だと思うわけ。「それは本ではない」という批判に対しては「本ではありませんが何か?」というしかない。
僕個人はと言うと、本という形態は人間の記憶の特性にもマッチしていて、電子データのみで生きるのは正直難しいかなと思っていたりする。検索をすれば見つかる=検索をしないと覚えてられない、なんじゃないかとも思っていて、こと物事を学習することについては書籍という形態はとてもよい。反面、物語は書籍じゃなければいけない理由はあまりない気がしている。辞書・辞典は調べるのであれば電子データが最適だが、眺めるのであればやっぱり本の形態が良いと思ってたりする。

まあ、何事にも一長一短というものはあるし、本がテキストデータの記録・再生方式として最高のものだ、というつもりもない。電子書籍のありようを考えるのであれば、そういった本の特性を愛している人に普及させるためにはテキストデータとして割り切るだけでは意味が無い。

これから僕たちは『ぼくのかんがえるさいきょうの情報提示装置』という名前で開発を進めるので、
あなたたちは『電子書籍』を作って下さい。

http://arukansoft.net/2012/05/deviceorinfo.html

なので、「さいきょうの情報提示装置」はテキストデータを便利に表示出来ればよいだけなので、すでに完成しているようなものだ。紙の本の便利さを単なるメタファとして切って捨てるのであれば、別にテキストビューワ以上の情報提示装置が必要とは思えない。
僕は、もし本を完全にリプレースする情報伝達手段が生まれるとしたら、やっぱりそれは「電子書籍」なんじゃないかと思ってるけど、それ以前にやっぱり紙の本は生き残るだろうと思っているし、生き残って欲しい。文明が滅び去る時、もっとも簡単なのは電子データの抹消であり、もっとも難しいのは個々人が所有する物理的なデータだ、という点も含めて。