権利と義務、自由と責任、そして対価
昨日のエントリには期せずしていろいろなお言葉を頂戴し、恐悦至極です。
あまり政治向きの話題であっても直接の話としては書かないようにしているつもりなのですが、やはりこの時期そうも行きませんね。
さて、関連して。
「権利行使には義務が伴う」というフレーズに対するよくある誤解 - 脱社畜ブログ
かのブログは社畜という世界観を持っている時点で僕とは相容れないところがたくさんありますが、この記事はいい解説だと思いました。
もっとも、権利と義務のセットが常に権利を有する側への提供義務=国家の仕事か、というとそう言うわけでもないですよね。例えば教育に関しては国が場を提供することと保護者がその場を子供に与えることはセットになっています。これは親に科せられた義務であると言って良いでしょう。つまり、誰かが権利を享受するために義務を果たす、あるいは義務を果たすための資財を提供するのは必ずしも国あるいは地方行政だけの仕事ではありませんね。もっとも典型的な国民側のお仕事は納税であると言えます。
なので、この文言上の問題とは裏腹に、マクロ的、間接的には義務を果たさないと権利が得られないことがあるわけです。税収が少ないと予算も削減されます。
僕はこの手の話の専門ではありませんから、法解釈や政治学的な話としてあっているかわからないけどね。
前回の記事では人権は天与のものであることが近現代の国家の「前提である」と述べました。市民革命後の世界では少なくとも建前はそうでくてはならないと思っています。もちろん、人権とは過去の人々の努力によって「勝ち取られた」ものであり、現代国家教の教義と言えなくはないです。しかし、勝ち取られた過去を反故にしてしまうことを看過し得ないよね、と。
もっとも、これが建前だと言うこともわかっています。現実問題として、未だ人は平等ではない。しかし、建前を建前として貫くのは国家の根幹です。政治家の差別発言がことさらに責められるのはそういうことで、内心に対して建前を貫けないのは資格の問題です。
以前から、自由には責任が伴う、ということを主張してきました。これは文言の上では権利と義務の話に類似しています。僕たちが自己責任と言う言葉がよく使われますが、これは国家が無制限の自由を与えられないから、自己責任の範囲に限って自由を行使して良いということにすぎないと思っています。従って、行為の結果として他者に及ぼした影響からは自由ではいられないのです。
幸いなことに、現代の国家においては義務や責任に当たる部分は相応の対価を払うことにより国家にそれなりの部分を委託することができます。たぶんこの話の焦点はここでしょう。すなわち、対価を払わないものに権利を与えるのかどうか。民間の世界では「じゃあ体で払ってもらおうか!」の部分ですよね。
「今は不況だから権利が制限されるのは仕方ない」と言う人は結構います。それの肯定って僕にはつまるところ、所得税が80%になっても仕方ないことの肯定に思えます。僕たちが権利を単に国家との契約で贖っているとしたら、国家の事情により対価が無制限に上昇するを否定し得ません。だから、僕は人権やそこから生まれる生存権、幸福追求権などを「天与のものであるという前提」にしなければならないと思っています。つまり、国家と言うのは国民を締め上げる、という安直な道を無条件で選択してはならないのです。
もちろん、昨今の長きに渡るデフレ不況や震災からの復興のために、相応の対価の積み増しが必要でしょう。それをもって国民が国家に果たすべき義務ということには違和感がありません。しかし、そこには「働かざるもの喰うべからず」といったような言葉は存在し得ないはずなんです。当然個々の人間をみていくと、不平等、不均衡な部分はたくさんあるでしょう。でもそれを言ってしまうと金持ちは偉い、を単純に肯定してしまいますよね。
さてさて、どうしたものでしょうかねえ。