反原発活動の果実として得た統制社会

どうも大阪市は節電対策という名のもとに市民による密告社会を実現しようとしているようでありますね。
参考:痛いニュース(ノ∀`) : 【節電】 照明が明るすぎるオフィスや店舗を住民が通報する制度が大阪で開始 - ライブドアブログ

社会というのは豊かになるにつれて、権利意識というものが芽生え、基本的人権とか差別はよくないとかそういうことに気を配る余裕が出来てきたわけです。経済が悪化してまず起こるのは弱者切り捨てや差別によるパイの奪い合い。それを実現するために国家による留保のない統制が行われたりするよね。
社会としての意識的には(個々の人間としては)いまさら得てしまった権利意識から引き返すことはできないけれども、社会がそれを望むのであれば引き返すのも仕方がない、という空気が出来てしまうのも現象としてはあると思う。
原発が悪いというわけではないんだけど、現実の豊かさのひとつの要因になっているものを無条件で排除してしまうことによって、そこに出来た空隙を豊かさ以外の何かで埋める必要が出てくる。それは社会の後退に帰結する危険性は十分ある。そのことをはたして反原発の急進的な人たちは意識しているのだろうか、と思ってしまう出来事だと思うのだな。盛大な皮肉だよねこれは。

もちろん、手段として間違っている、と非難することは可能だよね。でも、代替を確保しないと必ずしわ寄せはどこかにくる。それは、普段彼らが守りたいと思っているものに降りかかってくるかもしれないんだよね。

社会運動がイデオロギーの実現という部分だけで突っ走ってしまうとかえってそのイデオロギーが本来目的としていたものをゆがめたり、傷つけたりしてしまうことってあると思う。