虚構新聞は「文脈」足りうるのか

最近の僕のテーマは、「ネタネタとして見ぬくためのインターネット」になりつつありますね。文脈ってのは文章における大事なメタデータで、単に文章そのものだけではなく、そのおかれた環境においても発生するものです。例えば、「小説」と「ノンフィクション」ではその評価される内容は異なるし、だから「実話」と称した作り話が問題になるわけです。

さて、いわゆるメディアにおける環境文脈は、「週刊誌」「スポーツ紙」「ワイドショー」などのある程度ネタネタでも許される世界と、いわゆる報道とされている「朝刊紙」「ビジネス誌」「報道番組」「NHK(え?)」というものがあります。そういった発表媒体、あるいは人格などにも依存しています。
ウェブにおける文章の問題点は、そういった情報が文章だけのコピペによって剥がれ落ちていって、文脈の部分がなくなってしまうことによって問題が生じる(ネタマジレス病気の子供はいなかったんだ、消防署の方から来ました)。それは困ったことではあります。

虚構新聞が昨日やらかした記事。

大阪市橋下徹市長は13日、市内全ての小中学生に短文投稿サイト「ツイッター」の利用を義務付ける方針であることを明らかにした。

橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化

虚構新聞を知らない人のために文脈付与しておくと、虚構新聞いわゆるネタサイトで現実に起こりそうな、でもそりゃねーだろーってのを記事にするサイトですね。なので、当然これも嘘なんだけど…
ちょっと手を抜き過ぎだろう、と思いました。かつて僕が目にした記事の記憶だとこの手の社会問題は…
「大たいら市(非実在)の橋上市長は〜〜〜橋下市長のツイッター政策にヒントを得たとしている」
みたいな書き方をしていたような気がする。ようは、虚構新聞であることがネタ文脈である、ではなくて、ネタネタとしてわかるようになっていたような…気のせいかもしれないけど。昔から、「どう考えても内容がネタ」なものは実在の人物を使ってやっていた気もするけどね。
実際に実在の人物が実在の機関においていかにもやりそうなことをやる、というネタは正直いただけないと思う。これは、騙されたほうが悪い、ではないんだよね。なにしろ、文章にネタ文脈が「虚構新聞である」こと以外にはない。もちろんtwitterに詳しい人は年齢制限が〜とか考えられるんだろうけど、みんなが知りうる話ではない。もっというと、虚構新聞という名前自体が目に入らないと、虚構新聞のサイトでみたとしてもネタであることがわからないかもしれない。
「嘘を嘘と見抜けないと難しい」とはひろゆきの名言で、情報リテラシーの基本事項の本質を表していると思う。でも、そういった問題を単に受け手側の問題として片付ける時代はそろそろ終わりなんだよ。