成長とはなんだろう

社畜ブログがいいこと書いてた。本論としては。いつもそうだが社畜呼ばわりも含め、それが性に合っている人が非難されているようなことを書かなければよいのになあ。

例えば、ミュージシャンになりたい人がコンビニの仕事に熟達してもしょうがない。小説家になりたい人が、ビジネスマナーを完璧にマスターしてもやはりあまり意味がない。「出来ないことが出来るようになること」は大切だが、その前提として「自分が出来るようになりたいことは何なのか」を定めることは必要だ。慢然と成長だけしていても、それではどこに行くのかわからない。

Re:仕事を通じて成長しなくても許されるのは貴族まで - 脱社畜ブログ

ちょっと話がそれるけど、大学時代、体育会系音楽サークルに所属していた僕は1年生の時は丁稚奉公に近い、練習前のセッティング、譜面の用意、バンドで仕事をするときの手伝い(楽器車の運転なども含む)等々の様々な雑用をやらされていた。理不尽なこともあったけれども、自分が上級生になった時、就職活動やら必修やらで後輩のお世話になることを考えると単に労働の先取りだと考えてやっていた(決して悪しき伝統ではないと思う)。で、その時に様々なスキルを身につけた。主に重たいものの持ち方と機材の整理の仕方(車への積み方含む)ドラムのセッティングの仕方。これが趣味で音楽をするときにものすごく役に立っている。何がどれだけ必要で時間と場所がどれだけあればどんなことができるか、ということが血肉となっている。これは音楽の本質ではないけれども、趣味の活動の本質ではある。
同様に、小説家がビジネスマナーを知らないと、血が通っていない小説を書いてしまうこともあるだろう。本職やそれに近い人がその業界を舞台に書く小説というのはリアリティに溢れてたりするよね。
つまり、漫然と成長しているようでも、成長には少なからず意味がある。成長に意味が無いのは「ルーチンワークルーチンワークとして身に付ける」ことだけだと思うんだよね。事の本質をもって成長しているのであれば、人生にとって全く役に立たないということは実はあまりないのだろうと思う。そうじゃなければ、義務教育だって必要ないかもしれない。

でも、ここに書かれている通り、「自分が出来るようになりたいことは何なのか」を定めることによって、効率のいい生き方はできるんじゃないか。脱社畜というのは決して効率のいい生き方とは言えないと思うので、意外ではある。

そして、そういう「成長」の目的意識があったとして、それを実現するための手段として仕事が適しているのか、あるいはプライベートでの取り組みが適しているのかは、ケースバイケースということになる。上のミュージシャンや小説家の例だと、やはり仕事だと厳しそうだ。また、仕事とある程度親和性が高い成長を本人が望んでいたとしても、職場環境によっては効率が著しく下がる場合もある。「仕事を通じて成長」があらゆる「成長」に対して万能な解かというと、やはりそれは違うと僕は思う。

Re:仕事を通じて成長しなくても許されるのは貴族まで - 脱社畜ブログ

これは全くその通り。「成長」に対して万能な解というよりは、万能になるためのステップ(しかし無理)でしかない。そこに優先順位という考え方がないので、コピー機の操作にだけ習熟した人間が生まれる(そして往々にして紙詰まりやトナー切れに対応できる人材として重宝される)。
ただ、「だけ」にならないのであれば、一つ一つの事柄に習熟するというのは楽に生きるためには便利なことではあるし、細々(こまごま)と成長できる人材の成長スピードというのは大変早い。取捨選択ってのも意外と自分自身ではできないことが多い。個人的にはみんながOffice2007以降のインタフェースが使いづらいって言っているのがもったいないなあなんて思ったりする(あれは慣れれば慣れるほどよくできていると思う)。