「PayPal Here」は信用創造機関となりうるのか

小口決済システムについては後進国とよく言われる日本ですが、現金を扱う速度がシステム決済速度より早いくらいの日本というのはむしろ今までは決済システム不要くらいの勢いでいたんだと思うんだよね。強盗も少ないし。インターネットでの決済システムが中々うまくいかないのは、そういう事情もあって堅いシステムと柔らかい現金決済で事足りたリアルワールドの事情があるのは否めないところ。

従来、小売店がクレジットカード決済を導入するには「10万円程度がかかっていたが、そのコストが一気に下がる」(ソフトバンク孫正義社長)というメリットがある。小売店からPayPal Japanが受け取る手数料は決済金額の5%となる。

テクノロジー : 日経電子版

ということで、このようなサービスが出てくるというのは時代の必然なんだろうけど、気になるのはコストにフォーカスしていることなんだよね。
導入コストが1200円の機械だけ(実際には手続きとかでもっと掛かるだろうけど)としたらまあざっくりといって9万円差額。一般にクレカの手数料は3%くらいと言われているから、2%の手数料増でこの差額を埋めるには…450万円。少ねえ…

ということで、イニシャルコストの低下にサービスのキモがあるとすれば、そのメリットは売上450万を超えないというのが条件になります。なんかコミケに言及していたみたいだけど、ぶっちゃけリアル商売というよりは期間限定のものに対してのサービスがターゲットにも見えます。

もう一つ可能性が考えられるとしたら、カード会社に加盟店になることを拒否された、という相手をターゲットにしていること。僕達が映画とかドラマやマンガやドキュメンタリーで店の裏でカードをコピーされるような犯罪を見せられているのに平気でカードを使う理由は、加盟店ということで一定の信用があること、本人の責によらない犯罪行為はクレジットカード会社が保障してくれること、クレジットカード会社の方もそれを意識して犯罪行為のチェックをしていることなどがあるからですよね。つまり、クレジットカード会社という与信機関が加盟店に与信している。

詳しい話はわからないけど、報道されている話から仕組みを想像すると、カード会社にとっての加盟店に当たるのはPayPalで、このシステムの加入者はPayPal経由でクレジットカード決済を行うことになるのだろう。そうすると従来の与信に当たる部分はPayPalとその加盟者の間で行われ、ユーザーはPayPalを信用することになるんだけど、実際に使うのはPayPalのものではないクレカである、と。さて、このスキームは果たして信用に足るのだろうか。
ようするに、PayPalのサービスに加入する敷居が低いとカード詐欺(番号の不正取得が有力)の敷居が低くならないか、という心配。
カードが使えるお店=ちょっと安心、だったのがカードが使えるけどPayPalだ、というもう一つの判断をしなければならなくなったというか。もっとも、PayPal経由の加盟店にはカードブランドのロゴを掲載はさせないんじゃないかと思うけど。

そのあたり、実際の加盟の仕組みとか決済スキームがはっきりわからないのでかなり想像で書いてはいますが、ちょっと本当に大丈夫なの、という心配があります。

実名派は匿名派の脆弱性を狙っているのか

本当はもうちょっと人間を信じたい派の僕としてはあまりこういうことは言いたくないんだけど。

ネット実名派が本当に求めているのは相手の脆弱性 - Togetter

実際、議論に行き詰まると「お前どこのもんや」ということを言い出す人はいる。ただ、それを実名派の手段として認めてしまうと、それは実名派の言論における敗北宣言である。もちろん、認めないだろうけど。

まー僕も匿名で勝手なことを言っていることは認めるけど、実際のところ、昔小倉先生に名刺を渡したことがあるくらいはトレーサビリティーのある人間なのである。なので、僕が匿名でものを言っているのは匿名の影に隠れて卑怯にも人を誹謗中傷しその責任から逃げようとしている、というわけではない。一応。

さて、僕の考える近未来的な目標としてはやっぱり実名で自由にモノを言えたほうがいいよなあってところです。自由にってのは今まで再三言ってきたように決して無制限のものではなくね。誹謗中傷は許されないし、今の報道の自由だって自由すぎるほど他人の権利を侵害していると思っている。ただ、それを実現するためには発言の内容が反社会的でない限りは一切社会的地位に対する否定的な評価につながらないことだ。これは大変難しい。ある意味思想統制が結果としてかからないと実現できないのではないだろうか。もっというと、実名だろうがネットだろうがリアルだろうが、そういうことは言えなくなってしまう。もとより反社会的なことは考えてはならない、発想してはならない、ということに近似していく。
「俺は人を場合によっては殺していいと思うが社会のルールだからやらない」というのは反社会的な発言だろうか。誰にでもある内心の差別心を吐露するものは反社会的だろうか。そういった内心は一切発言することが許されないというのが社会というものなのだろうか。

原則でいえばそうかな、とは思う。それはウェブの公共性に起因している。逆に言うと、公共の場として認められない世界を作りたい。原始的なウェブのコミュニティーは多分そうであったと思うんだけどね。匿名というシステムが、本来クローズドなコミュニティーをオープンにしてしまった結果として、混乱が起きている。
極端な話、ムラがあって、そのムラが文脈を担っていて、「ああアレは2ちゃん村だからなあ」(リアルで言うスポニチだからなあ的)というメタレベルの文脈付与がきちんとしてればよいのかとも思ったりする。しかし、今の現状を見ると、2ちゃんをソースにニュースができるくらいには文脈が崩壊している。つまりあれがムラで、信じる奴はバカだよ的なコンセンサスが得られていない。

そうすると、依然として多種多様な考え方をすること自体は肯定するけど、考え方が反社会的かどうかの評価はされてしまう社会は存続するだろう。つまり、ウェブで自分の趣味を語ったりするとバカにされたり責められたりするかもしれないという社会。


話を戻すと、まあそういうのが社会的地位というものの脆弱性であると考えると、社会的地位を守るための手段が明確であることが匿名論者の主張であり、実名論者の主張は少なくとも建前においてはその手段が反社会的(そこまで行かなくてもバカな)行為を助長する本末転倒のものである、というところだろう。そこの本音に「議論に負けたらリアルで勝つ」なんていう意図が含まれているとは思いたくないんだけど、仮にそういう人がいるとすれば(実例は沢山あるからいる、というのが結論だが)、その人達をどうにかするソリューションを提案することが実名制ウェブへの近道であると考える。
例えば、リアル攻撃を仕掛けた馬鹿者データベースを作って世の中一般の評価軸として提示する。これも非常に難しい。隆ちゃんの例を見ても分かる通り、どんなに悪を暴かれても平気な(本人ではなくその需要側が平気という意味で)実名というのはいるわけで…
一方で、匿名側も気をつけなければならないのは、リアル攻撃という点では有利な立場であるということ。こちらはリアルを攻撃されないのにあちらのリアルを攻撃するのは非常にずるい。もっとも、ここでいう攻撃は所属に電凸したりなんだりすることである。言論の場においてポジショントークであることを暴露したり(それがあちらの意図かどうかはともかく)、その立場としての見解としておかしいことを攻撃したりするのは許容範囲かと思う。

最後にちょっと整理すると、実名の言う匿名のダメなところと、匿名の言う実名のダメなところは、問題の次元が違っている。なので、それを同時に満たす仕組みを作ることは難しい。であるならば、同時に満たさない場でわけるのが本当の姿だと思う。そして、今例えばfacebookと匿名ブログを使い分けているような人はそこに近づいてきていると思う。ただ、そこに明確な実名であるべき、匿名であるべき文脈はない。なので、実名ウェブという文脈と匿名ウェブという文脈は互いに交流・混交しないための仕組みが必要だと思う。そして、これを実現する場合、匿名の言論はかなり制約されるという形にしなければならない。秘密の暴露は社会的な価値がある場合にのみ認められ、個人(やコミュニティー)への誹謗中傷は原則認められない。ヘイトスピーチに当たる思想信条の吐露は表現の自由に当たらない、等々。
じゃあ、そういうリアルで言えないからウェブで管巻いてた系のはどうすればいいかというと、それ専門のクローズドサイトででも言えと。パブリックに匿名で撒き散らすから問題になるわけで、居酒屋と同等の空間があってもいいと思う。ただし、そこからパブリックな空間に情報が流れることは固く禁じなければならない。

まあこのくらい住み分ければなんとかなるんじゃないかな。今起きている問題は実名が匿名と交流しちゃうことによることかもしれないし、匿名がリアルに手を出す悪さをしてしまっているというのも原因の一つだろうね。ここまで言っておいてなんだけど、そんな面倒なウェブ嫌だけどね。モラルでカバーできない問題はルール化するしかないし、ルールによって今の匿名の活動がある程度制限されるのはしかたがないと僕なんかは思っているけど、それが嫌だったらもっとモラルを高めるような努力をしないといけないよね。

「俺の意見は正しいからお前らはコメントで俺の意見を肯定せよ」

たまたま目に入った。

ただ、私が思っている最大の欠点は、標準化されていないということです。このコードを初めて見る人はまず Flag 構造体の仕様を知ることから始める必要があります。bool をそのまま使っていれば、そのようなことは必要ありませんでした。
.NET のライブラリーにこのようなフラグ用のクラスや構造体は備わっているのでしょうか?

http://ap.atmarkit.co.jp/bbs/core/fdotnet/31987

この質問に対して、そもそもFlag構造体なるものを使用しなくても実現できるんじゃない、という意見がついたが質問主は頑なにFlag構造体でうまくやるソリューションについてその正当性を繰り返すという不毛な議論になっている。おそらく
欠点を克服したいからそのやり方をしりたい、という主に対して、別のやり方の方がいいよ、という話をしても意味が無いのだろう。
この話にかぎらず、まず結論有りき(この場合は当初のアイディアの方向性は崩さない)で質問をしてしまい、その目的が他者に明確ではないと議論にならない。肯定的に捉えて発展させるものだけが受容される。もっとも、プログラマーは非情である。プログラマーにとって大事なのはコードの効率性か、それを犠牲にする代わりの可読性かどちらか(あるいは両方)であり、メリット・デメリットを比較してNGと判断されたことについては情など斟酌せず容赦なくダメ出しをする人種である。「この方がいいよ」というのは婉曲話法で、実際には「そんな実装じゃダメだ」と言っているのである。

そういう世界(何もプログラマーに限った話ではない)における議論というのはある程度正解が明示的にある(前提が明確なのでブレない、論理的にそれしかありえない等、限定条件があることにより)世界だったりするから、一見議論が平行線をたどっているように見えて実の所単に議論が成立していないだけだったりする。だから、間違った前提で突っ込んできた人も「俺が正しい」以外の意見を持ち得ない。もちろん、きちんと話の前提をすりあわせた時点で無意味な議論ということに気づければそれはそれである種の(この場合前提についての)議論が成立したということでめでたい。

さて、かのように世界の形が見えている中での議論については失敗成功がわかりやすいのであるけれども、イデオロギーとか主観とか気持ちとかそういったものが世界を構成していると、前提なのか主題なのか、どこで議論しているかが曖昧になって溶けて崩れていくということがよくあると思う。実の所みんな結論有りきで話しているんだけど、本題以外のところでは譲歩しまくっている結果議論が成立しているように見えたり見えなかったり。

何が正しいかはっきりとわからないから、一旦正しいを定めるために議論しよう、という議論というのはまあ建設的になりがち。誰かが正しい結論を持っていて、それをきちんと納得させるために(ある種の伝達を行うために)議論しようというのもまあよい。正しい対正しい対決だけど、議論の中で自分が間違っていると思ったら考え方を改めるためにきちんと自分の正しさを説明したい、もなんとか。俺が正しくて周りは間違っている×俺が正しくて周りは間違っているはすでに議論ではなくて喧嘩だよね。

ビッグデータというバズワードとHadoop技術者の悩み

金融業界、それも銀行担当でSEなんてやっていると中々Hadoopみたいな技術に触れる機会もないんだけど、そうはいっても無視できないキーワードになって来ているビッグデータとともに、基礎は理解しないとなーと思って色々調べたりやってみたりする、というのが僕のお仕事の一つではあるんですが…

さて、ノーチラスの人のインタビュー記事が面白い。

最終的には、ビッグデータという言葉は消え、分散処理を効率化するHadoopのメリットと事例だけが残るというのが神林氏の予想。そうなったときにビッグデータの海から、ノーチラスが再浮上するのかもしれない。

ASCII.jp:“統計の基礎を無視している”Hadoop使いが考えるビッグデータ|百家争鳴!ビッグデータの価値を探る

おいおい、ノーチラス沈んじゃってるよww

この結びの一節は置いといて、内容はわりと派手な言葉で否定的な見解を熱く語っているかのような記事なんだけど…

ノーチラスの中の人が当件についてこのように語っております。

こういう塩梅になった。これでも一応、最初に上がってきたインタビュー記事を訂正して、この状態という感じです。最初のほうはもっと派手だった。まー、さすがに読み手で不快に感じる人もいるだろうし、とはいえ、話したことをつないでいる部分は確かにあるわけで、はてどうしたものかな・・・と思っているうちにリリースになったというのが実態ですね。

Hadoopは統計の基礎を無視しているのか? - 急がば回れ、選ぶなら近道

大意についてはまあ納得。語感の問題はまーどうでもいいんじゃないwってのが僕の印象ではありますが。ビッグデータという言葉が本質を表しきれていない(というか誤解をまねき過ぎる)というところはありますが。

僕みたいな業務屋さんにしてみると、Hadoopってのは分散処理のブレークスルーでしかなくて、それだけだとどうにもこうにもならない。分析系でもない限り、サンプリングしてどうこうという業務は存在しないだろう。統計の基礎知識を持ったSEなど数えられるほどもいない(つまりいない)。大体において「文系でもできます!」ってのが業務系SEの学生に対する売りなわけで、実は統計が必要でしたとか言ったらどうなってしまうことやら。
(だからこそ、文学部出身のくせに数学も統計もある程度できる僕みたいな技術者が重用されるわけだけどね)。

少し気になった点を。

いまの論調は「単純に全件集計ができるようになったので、今まで見えない傾向が見えるようになりました」というコンテクストも目立つのも事実です。これは違いますよ、ということです。

Hadoopは統計の基礎を無視しているのか? - 急がば回れ、選ぶなら近道

全件集計、というのはともかく、結果として扱えるデータ量が増えたことによる利点は母集団(件数・期間など)を大きく取れるようになったってことではあるようなあと思うわけですね。特に推移の傾向を見るような場合には期間という横軸のデータ量が増えて、それはサンプリング解析しづらいかなと思ったりもする。

で、ざっくりと感想なんだけど、HadoopがBIで有効に使われているか、というとそうでもないよね、というのには同感。分散処理の新たなフレームワークとしてバッチ処理に使うという考え方も方向性としてはあってると思う。実際に自分の仕事での活用事例を想像してみると、集計系の重たいバッチ処理の代替くらいしか思い浮かばない。

じゃあ、ビッグデータは単なるバズワードか、というところは難しい。一昔前はクラウドもそう言われていたけど、今では一つの概念としてある程度ちゃんとした形で定着していると思う。ビッグデータってのが「分析できるからなんでもとっとこうぜ!」みたいなニュアンスになるとディスクベンダーはウハウハなんだろうけど、本当にそれって意味あるデータなんだろうか、という点はどんどんおざなりになっていく危険性がある。いくら処理が早くなってディスクが安くなるからといっても、設計段階で不要なものまでなんでも取り込んでしまうというのはある意味大富豪プログラミングに対する批判と同種の批判ができるだろう。

だから、ビッグデータ

  • 今までできなかったことができる → なぜできなかったか?必要がないからしなかった、ではないのか
  • 新しいデータの活用 → そのデータはほんとうに必要なの?

などの問にきちんと答えながら活用方法を考えないといけないんだと思う。いくつかの事例、例えばSUICAで買える自販のデータを元に商品開発しました!みたいなのははっきりいって業界の広告みたいなもの(なぜなら発売前にヒット確実みたいな宣伝をしていたから)で、実際にデータを分析して開発した結果なのか、広告の成果なのかすらわかったもんじゃないわけで。

クラウドは基盤系技術だったこともあって、無事落ち着くポジションに落ち着いたと思う。一方で、ビッグデータはデータ活用側のワードだし、Hadoopは本質的には基盤系技術そのもののことだし、それを変につなぎあわせてあれができますこれができます的な話で商品化していくってのも乱暴な話だし、危険だよなって。

1年間くらいHadoopを見てきた結論としては、これは単に基盤技術だ、と捉えるべきだと思う。一方で、ビッグデータって言葉はもう少ししないと定義が曖昧なままだろうな。多分、最初に登場したときの言葉では乗っかれない人たちが言葉の定義を拡張し、これもアレもビックデータだと言い出しているんじゃないかと思ってる。流行の言葉はそんなものだ。単なるデータセンターを「これも見方によってはクラウド」と言い放った人もいたくらいだし。
なので、ビッグデータが真の姿を見せるのはあと2年先かな。