対価のさき

半年くらい前に、こんな話を書きました。
ぼくらは、いったい、何にお金を払っているのだろう。 - novtan別館
長いわりにあまり内容がない気がします。今度は視点を変えて、著作権全般について、ちょっと簡単に思考実験的に。

僕らは果たして中身にお金を払っているのか

コンテンツを再生するための機器のことをハードウェアと言います。ハードウェアは形があるもので、物への対価を払っている感はかなりあると思います。払ったお金で物を所有する。実にシンプルですね*1
一方で、ソフトウェアとはなんでしょう。ハードが交換不能なものである一方で交換可能なものがソフト、そして、コンテンツの中身が入っています。さて、ここで僕らがソフトウェアに払っているお金は、本当は何にお金を払っているのか。ソフトウェアも、少なくともつい最近までは、何がしかの物体に納められていました。CDとかビデオテープとかですね。しかし、僕らがお金を払っているのは、本来その中身なのですよね*2。ところが、その中身は、その入れ物と一体になった状態でしか所有されません。何を当たり前のことを、と思うかもしれませんがとりあえずそういうことです。

ハードとソフトの真ん中で

ややこしいのは、その中身そのものは、ハードウェアがないと価値を持ちません。しかも、ハードウェアは、「再生するための情報を取り出す」のが仕事で、実際に再生するのは、そのから取り出された情報を使用する、別のハードウェアなのですね。ここで一つ問題が。そのハードウェアは、放送も、再生することができます。そして、録音すなわち放送またはメディアへの記録、をコンテンツ供給側が独占していたときは良かったのですが、録音する機械が過程に持ち込まれてしまった。そうすると、当然、コンテンツのつまり中身の複製が可能になるわけです。ちょっとまってー、僕たちが売っているのは中身じゃないんだよ、中身とメディアが融合したものを売っているんだよ、とそういうことになります。つまり、「勝手に複製するな」。これは、いわゆるコピーライトとしての著作権の根源のところであるから、重大な問題です。
ちなみに、話を単純化するために歴史的な時系列を無視していますが、実際には映像コンテンツにおいては放送⇒録音機器⇒放送を勝手に録音するな⇒でも家庭で使うなら⇒ビデオデッキ売れ⇒ビデオソフト売れ、というのが流れになりますかね。

私的録音と劣化と電子化と

そんなわけで、本当は、録音・録画をさせたくない、けれども、その用途で機器が広まった結果、それを使ったコンテンツのマーケットも広がったわけです。ところで、アナログ時代の記録装置は、必ず記録を繰り返すごとに劣化します。コピーは必ずしもオリジナルならず。しかし、CDの登場から、PCの普及にいたって、劣化しないままのコピーができるというのが当たり前になりました。すると、際限なくコピーをし続けることができます。でも、私的使用の範囲だったら?

中身と入れ物は不可分か

例えば、記憶力の優れている人ならば、読んだ本の中身を完璧に記憶してしまうことができるでしょう。そして、本と言う物体が必要なければ、物はいらなくなりますが、中身は所有しているわけです。そして、繰り返し、自分の頭の中で楽しむことができる。音楽にしても、映画にしても、文章に比べれば少数でしょうけれど、頭の中で再生できれば、もうメディアはいりません。まあでもそういうものじゃないよね。でも、僕らが必要なのは中身だけであって、それがどのメディアに固着しているか、と言うのは自分がどのハードウェアで再生したいか、ということにとってのみ重要です。そして、デジタル時代になって、自分のライフスタイルに合わせたハードウェアの選択は当たり前になりました。コンテンツがポータブルになったともいえます。利用者の側からすると、コンテンツはメディアから解き放たれて欲しい。でも売る側からすると、メディアとセットで使用権として売りたいのです。コンテンツそのものの権利を売っているのではなくて、その再生手段に特化した、パッケージとして売っていることをはっきりさせたいわけです。だから、中身と入れ物は不可分なものになります。

とるすと、ファイルはメディアか

PC時代になって大きく変わったのは、特定のハードウェアで読むためのフォーマットに固着されたはずのコンテンツが、汎用的なファイルとして表現可能になったことです。これにより、コンテンツはメディアの頚木から解き放たれたことになります。でもそれじゃあ提供側が困る。となると、従来の概念からの解釈としては二つに一つです。ファイルがメディアか、ファイルを保存するものがメディアか。ここで根源に立ち返って「使用権」としてのDRM制御によるコンテンツの流通を図った向きもありますが、メディアを所有することがコンテンツに対する権利だ、と言う概念を普及させすぎたせいか、コンテンツの購入=私的利用は自由という概念にマッチしないことで苦戦しているようです。

結論らしきもの

とりとめなく語ってみましたが、ますます僕たちが何にお金を払っているのかわかりにくくなりましたね。権利としての著作権から離れて、コンテンツ業界からは、我々がお金の対価として得ることができるものが、果たして所有なのかそれ以外なのか、ということにすら、ぴんと来る形での答えを提示してもらっていないように思えます。一つのポイントとしては、消費者は決してコンテンツ会社を「儲けさせよう」と思って買っているわけではないという点ですね。つまり、コンテンツ会社が儲かる仕組み、ではなくて、消費者が買いたくなる仕組み、そしてその仕組みが結果として利益に繋がること、が大切なわけです。消費者は、決してコンテンツ会社を悪の権化として不買運動を展開しよう、と思っているわけではないのですから、魅力的なコンテンツと、これからのニーズにあった流通方法、使用方法を提案できれば、付いてきてくれるはずです。そして、消費者マインドをうまく掴んで支持されてきている会社もあるわけです。
従来のメディアとコンテンツの関係を守るのではなく、コンテンツのあり方をみんなが楽しめるように考える、というようにあって欲しいものです。
ちなみに、今日は著作権者の話はすっ飛ばしました。これはまた別の機会に…

*1:ところが、実際にはリサイクル費用先払いとか、私的録音保証金が含まれていたりして、そう単純ではありませんが

*2:もちろん、お金を払う対象のアイテムとしてのメディアはそれはそれで重要なわけではありますが