私刑ではないか

およそ悪い行為をすることは、破壊活動以外のことであれば、大抵悪いことをしないよりも利益を得ることができる。だから、悪いことをするやつに対して妬み的な、一方的に利益を享受しているような、こちらは我慢しているんだから我慢できなかったやつは報いを受けろ的な、感情を抱くことは自然なことではあるが。
誰かがWeb上で悪行を晒したからといっても、我々が出来ることは、記載されているう情報を基に「通報しますた」程度のことであって、Webに掲載されていないプライベート情報の特定や掲載という行為は行きすぎであると思われる。
例えば、僕の身元は公開されているいくつかの情報から辿ることは出来るだろうけれど、あえてWeb上に自分の情報として掲載されていないものを詳細に調査されて公開されることは望まない。そのこととどれほどの違いがあるのか。少なくとも、彼の悪行を通報することにおいて、必要な情報は現地調査ではあるまい。すでに報いを十分に受けさせたと思える以上、その後の行為は必要以上のプライバシーの侵害である。
一方で権力による監視を嫌がり、その一方で自らが権力として必要以上の監視を行うのであれば、それはダブルスタンダードと言えるだろう。もし、Web上で得られる情報以上の情報を得る必要があるとすれば、例えば詐欺の被害者が相手先の住所が実在しないことを証明すると言ったような、事案に対する直接的な影響のある調査にとどまるべきであり、それすら社会通念上、(被害者と言う立場があるからこそ)黙認されているに過ぎないと考えることも出来る。
一方で、以下のような考え方もあるだろう。公権力による調査が出来ない(圧力や不信など)場合、ジャーナリストが取材により事件を明らかにしていく構図と同じである、と。しかしそこで公にされるのは取材の過程ではなく、裏をとれたと判断した最終結果である。そして、こういった取材ですら、場合によっては行き過ぎとみなされる。社会の利益になると判断するのはジャーナリスト自身ではない。
悪いものは悪い。そのことについては特に異論あるものではない。しかし、告発する過程での行き過ぎた行為は果たして覚悟あってのことなのかどうか。一般に匿名の陰に隠れて、と揶揄される必然性はないと考えているが、こうした行為において、匿名にネガティブなイメージをうえつけられるのはWebの未来にとってなんら得るもののないことだと思う。