「格差社会の原因」エントリについて(2)

先に、いくつかの点について、解説しておきます。今読み返してみると短いエントリですね。短い分、読み方に多様性が生まれてしまった気もします。そして書かれていることは1975年生まれとして生きてきた僕の個人的な印象なのですが、読んでいただいた方々がそれぞれ自らの価値観というか、社会観に当てはめて解釈する、ということに対して、僕の価値観についての補足は全くありませんから、そういった点では色々な読まれ方をするのは当然だとも思います。
と言うわけで、補足的な自己ツッコミをしておきます。そんなの読み取れねーよ、と言われるかも知れませんけど、そりゃ読み取れなくて当然なので正当な批判です。すみません。あと、「頑張る」ということについて、何をどうやってということを一切説明していないのもわけがわからない原因ですね。訳がわからんという批判は来ると思っていましたが…

なんだか日本全体が豊かになったような気がして人並みの生活を送るくらいなら頑張らなくても可能、という勘違いがまかり通っているのですが、そんなわけない。古来から、頑張らないと人並みの生活など送れないのです。格差社会の元凶は、我々の世代が、個性とか、趣味とか言って騙されて、頑張るのはアホだと思い込まされたことにあります。人間頑張らないと暮らしていけないのですよ、本来。

格差社会の原因なんて、みんなとっくに気付いているよね - novtan別館

まず、この節で言いたいことは、日本って、実はまだ豊かではない、あるいは一度豊かになったことでそれがずっと続くと思い、その豊かさに胡坐をかいた社会論がまかり通ったその結果として、表面上は豊かだけれども、一部の人だけが豊かな状態に戻ってしまったのではないか、という事です。頑張らないと暮らしていけないのは、頑張ったら暮らしていける、というのとは同義ではありません。ちなみに、この節における「頑張る」は仕事=人生(少なくとも投入すべき時間において)だよね、と言う意味合いです。
ただ、ここを元凶としてあげるのはちょっと強引ですね。ただ、僕は成長期に「自分らしく」「仕事だけが人生じゃない」的なキーワードが氾濫した世代として、つまり、豊かになったと思っていた絶頂期(中高生の時期がバブル崩壊前後)に育った世代として、なんとなく元凶感がありますね。

一部の成功事例に騙され、人生にはゆとりが必要と思わされて、頑張らなかった人が負け。仕事も趣味もっていうのは、実は頑張ってそこそこ勝ち組にならないと実現できません。そんなこととっくに気付いているはずなのにね。

格差社会の原因なんて、みんなとっくに気付いているよね - novtan別館

ここでの頑張る、は「競争社会としてのレールに乗る」ことを、ということ。例えば、フリーターになっても自分の夢に向かって頑張る姿は素晴らしいとか、そういう暮らし方が「あり」と思わされてしまった感があるということ。その中で、生き抜くことを優先して頑張った人との差が出ているということ。

スタート地点で騙されて、道を誤ってしまった人は犠牲者ではあるけれど、その人たちのおかげで勝っている人もいる。格差社会は、その時点で容認されていたはずなのに。まさか暮らしていけないレベルまで堕ちるとは思わなかったのかもしれないけれど、好きなことは勝たないとできないということに気がつくべきだったのですね。

格差社会の原因なんて、みんなとっくに気付いているよね - novtan別館

これは厳しい。全員勝つことは無理、というここでの議論の大前提が見えにくいですね。ここで容認されていた格差ってのは、自由の代償としての格差なのですが、その時点では、その格差は「諦めた」時点である程度まではリカバリ可能な格差であると見做されていたと思います。少なくとも、1990年代において、僕が感じた空気はそういったものでした。

格差を全くなくしたらモチベーションがどうとか言っているけれど、本当は、頑張らなくてもそこそこ働いていれば喰っていくくらいは出来る、という社会が理想的だと思います。が、今の現実はそうではない。今更派遣に文句を言うべきではない。何でこうなっているかというと、僕らの世代、あるいはもうちょっと上の人の一部が頑張らなかったからだってこと。虚しいね。

格差社会の原因なんて、みんなとっくに気付いているよね - novtan別館

はいはい短絡短絡。これは酷いって言ったらこの結論が酷いですね。「頑張らなくてもそこそこ働いていれば喰っていくくらいは出来る、という社会が理想的だと思います。」と言うのが一番の本音の部分です。このへんは以前書いた膨れ上がった団塊を食わせるために搾取されている実感 - novtan別館とはちょっと違う話なんだけど、社会全体として成長を望むならば、かつての高度成長期のようにがむしゃらに働く必要がきっとあるだろうし、もしそうでないときに、「効率よく、ちゃんと評価、定時で帰るのが当たり前」というのを何の留保もなしに言っちゃうようなことはそれが出来ない能力の人に対して少し冷たいと思うのです。バカは切り捨てろ、格差社会はおかしい、というのは矛盾している。まあそういうことを言っているわけではないのだろうけれど…。そう言った意味で、「(病気になったり怪我をしたり、ということのリカバリーも勘定に入れた上での)日々の糧が得られれば自分としては満足」と言う人がちゃんと喰える世の中と言うのが僕ら(と言うのは1990年代に僕と同じようなことを想像していた人の想像であり、みなさん全員をこちら側として組み入れたいという意味での言葉ではありません)が想像していた21世紀の世界です。そして、今の現状はそうではありませんね。
ワーキングプアとかそういう人が出てきている現状というのは、社会が効率化を求めると、その効率化の対象の仕事を元々していた人がはじき出されるという当たり前の事実に目を逸らさせるという戦略が功を奏した結果として起きていると思っているのです。
重ねて言っておくと、「今、頑張って何とかならない人」の「頑張り」に対して問題視しているのでもないし、「頑張って残業すべき」という精神論でもありません。「(必要以上に)頑張らない」ことを社会的に容認させた結果として、格差の一番上の人がうはうはな現状に対して、半ば騙された形で作られたんじゃないか、ささやかに9時5時で働いてつつましく家族と暮らす、という選択がありえない状態を容認してしまったのではないか、ということを結果論として述べているだけです。これが社会の見方の一面でしかないことは重々承知の上です。
以上、補足を含め、個人的な雑感であります。それは(具体的にこう)おかしいとか、俺はこう思うとか、あれを読んだ方が良いとか、そういったコメントは大変ありがたいですね。この話は、次の十年をどう生きるかといったようなことにも繋がります。今、社会の中心になりつつある世代として、その考えが正しいか正しくないかは別として*1、こういったことを考えていかないといけない義務はあるんじゃないかな、と思っています。

*1:最終的によりよい考えになればいいから、という意味でね。念のため