正義の味方じゃないのはわかっているけど

弁護士の職務において、社会的正義の味方を演じると言うのはもちろん入ってなくて、ただ依頼人の利益になる(と言うのは訴訟をしないことで敗訴時の負担を増やさないことも含む)ことを第一義として業務を行うのが弁護士の職業倫理というのはわかっているのですが。
ただ、社会的なステータスを持つと思われる職業、例えば高級官僚・政治家・医師などと同様に、ある程度の色眼鏡で見られる職業ではあるし、それを意識しなければならない職業なんだろうな、と思うと日々の社会生活の苦労に頭が下がるばかりです。志を持たないと続けられない職業だと思います。
さて、そんなわけで、原則としての職業倫理以上のことは個人の資質に依存するわけで、それを「職業人としての責任」とするのは過大な要求です。だから、それをするつもりはないけれど。
前置きはこれくらいにして、小倉先生から頂いたコメントにお返事。

OguraHideo 『「勝てるかもしれないけれど、得られるのはお金だけだよ」と言うことを「人として」言ってあげられるという「人として」という部分は、医療過誤訴訟を提起することには倫理的な問題があることを前提としていますね。』 (2007/08/30 22:22)

医療と訴訟の先に - novtan別館

僕は、救急などで問題になることを大雑把に整理すると、以下のようになると思っています。

  1. 明らかな医療ミス(医師に重過失あり)
  2. 全てが上手く回れば救えたかもしれない(医師に過失があるが、過労などの外的要因あり)
  3. 全てが上手く回れば救えたかもしれない(医師に過失が多少あり、あるいは状況依存(救急が埋まっていたとか))
  4. 全てが上手く回れば救えたかもしれない(医師に過失なし。あるいは、高レベルの専門性が無いと対応不能)
  5. 通常の手段では回避不能(国内最高レベルの技術や施設が必要、など)

で、お医者様方が危惧しているのは、1で訴訟を起こされるならともかく、2〜5にまで責任を問われることですね。そして、報道や、無理解な裁判官*1などによって、2〜5が社会的に糾弾されつつある、と言うのが現在の状況です。
と言うこと踏まえて先生にお答えすると、何をもって「倫理的」という言葉に値するのかは難しいところですが、2〜5のレベルのものについて、単に「勝てるから、お金を取ろう」という目的で損害賠償訴訟に邁進することは、「弁護士としての職業」倫理には合致しているかも知れませんが、「人としての」倫理にもとる部分が少なからずある、と思っています。それは、訴訟の相手が本当に「悪」であるかではなく、「損害賠償を勝ち取れるか」が基準になっていると思われるからです。正義ではなく依頼人の味方であるところの弁護士という職業ではそれが当たり前のことなのかもしれませんが。
医療過誤であるとの判断を弁護士がしたとしても、医療過誤訴訟を提起して医者に損倍の賠償をしてもらおうという行いは人倫に悖る行為だからやめた方がよいという観点から」というのは的外れです。「医療過誤であるとの判断」ができたのであれば、訴訟を起こすことになんの問題もないでしょう。そうではなく、「客観的にみたら医療過誤とは言えないけれど、医療過誤とされる」事例が増えつつあることに対する危惧があり、それを助長するマスコミなどへの苦言の延長線上に、弁護士に対する願いがあると思います。マスコミと同じくある程度の社会的発言権を持つと思われる弁護士の見解と言うのは、その風潮を助長するものであるから、軽はずみな発言は控えてほしいと言う思いが根底にあると思います。明らかな過誤について、訴訟を起こすことを否定する人は見当たらないし、ボーダーライン的な部分で白黒はっきりさせるために訴訟をすることもありでしょう。しかし、「勝てるかどうか」が第一の判断基準になる、ということは、この今起きている問題を社会問題として軽視していると言わざるを得ません。
その点を度外視して、「弁護士と言うのは依頼人が勝つか負けるかの判断をし、勝てると踏んだら戦うことが仕事である」とするのであれば、それはそれで弁護士としての態度としては正しいのではないかと思います。あくまで弁護士ではない一市民から見て、ですが。

*1:と言う点については僕も医療の専門家でないから実際にはわからない部分もありますが、議論を客観的に評価すると体制に責任を問うのはともかく、医師個人に責任を負わせるのはババ抜き状態にしか思えない。