ゴミである素人動画に価値があるのはなぜか

これはなかなか的確な分析かと思う。メディアの中の人がまあ見下しているわけではなくて、クリエーターとしてのプライドと言うことだろうし、プロとはそうあるべきだと思うから、そう考えること自体は首肯したいのだけど…

では、テレビ局は動画投稿サイトについてどう考えているのだろうか。テレビ関係者はこう言う、「素人動画はゴミだ」。
 この意見は2つの内容を含んでいる。一つはドラマなどは制作コストが作品の質に比較的比例しやすいということ。現状の日本では人、物、金すべては地上波キー局を中心とするピラミッド構造から構成されているという指摘である。これはかなり正しい。

テクノロジー : 日経電子版

確かにここで言われていることは正しい。けれども、メディアの中の人は素人の動画をゴミだと思い、またそれと比較されること自体ナンセンスだと思っているのであれば、少し考え直した方が良いと思う。なぜなら

そこに登場してきたのが動画投稿サイトというロングテールだ。しかし勘違いしてはいけない。ロングテールになっても素人の個々の作品はその大部分がやはりゴミである。「チリも積もれば」的に積分値で比較するとヘッド部分に匹敵するから十分価値がある、のでは断じてない。ゴミがゴミとして価値を生むのである。ここがテレビ局的発想では理解されない部分だ。
〜中略〜
作品性の高さとは関係なく、集積自体がゴミを宝に変えるのだ。

テクノロジー : 日経電子版

とあるけれど、ゴミに価値が出たのはそれだけが原因じゃない。どんなに制作コストをかけても、そのコストがキー局の人間の懐に入ったり、中抜きされたり、宣伝に金をかけたり、どうでもいい演出に費やされたり、タレントのわがままに費やされたりして結局番組自体の質に反映されたかったら。豪華なセットや、豪華なご褒美の料理や。そんなどうでもいいところにお金が回っていく。のであれば、結局のところ、テレビ局が作成している番組自体、グレードの高いゴミに過ぎない。つまり、ゴミに価値を創出したのはまずテレビ局であって、ウェブ上のゴミは見た目がみすぼらしくてもテレビ局の作ったものの本質とそれほど差がないし、その本質的な部分では勝っている場合もある。ゴミとゴミで戦っていることの自覚があれば、今の状態が如何にまずいかということに気付くだろうけれども、自分たちが作っているのが宝だと思い込んでいるのであれば、いつかその量に負けてしまうことだろう。テレビ局のやることは、ゴージャスなゴミを作ることではなくて、宝となるものを作るべきだ、と言うことだ。
そして、様々な技術の発展と、趣味趣向の多様化、過剰な演出への嫌悪などの要因が相まって、ウェブ上のゴミは宝に変化しつつある。一方で、細々と宝を創出しながらも、全体としてはゴミにばかり金をかけているテレビ局を見ていると、収益構造がゴミに依存しているように思えてくる。このままではあっさり倒れてしまうときが来るのではないか。
視聴者の側が、ゴミでも面白いって言ってくれている今はいい。でも、じゃあ、そのゴミを面白いって言っている人たちは、本当のターゲットなのだろうか。CMに踊らされるような人が割合として減ってくるとしたら、今の収益構造は崩壊を迎えることになる。その覚悟は果たしてあるのだろうか。