寂しさに、八つ当たり

去年から今年にかけて、沢山の結婚式が周りであって、参加したり、二次会の幹事をしたり、まあ色々走り回ったわけだけれども、僕自身はそんな予定も全く無くて。ふと、なんで人の幸せの為に駆けずり回らなければならないのか、と思ったことがある。
大切な仲間なはずなんだけれども、同じ事を同じ思いでやっているはずなんだけど、その幸せとともにやってくる家庭の事情やらなんやらが、「ある」「ない」
に二極化して、「仕方が無い」になってしまったときに、自分が一人なのも仕方が無いことなのだろうかと。出て来れない人をカバーするのも仕方が無いのだろうかと。誰かが幸せの代償によって失った時間を肩代わりしているのではないだろうかと。そう思って、落ち込んだ。
きっとそんな気持ちは、幸せを得られてしまえば忘れ去ってしまえるのだろうし、僕自身、多分、あのときのあの気持ちの正体はなんだったのだろうかと後で思うに違いないけれども、まだその残滓が残っている今において、その一抹どころではない寂しさによって引き起こされたであろう八つ当たり的行為がいつまた表面化するだろうと思ってはいる。
だから、幸せを突きつけるな、と。見せ付けるな、と。そう言いたくなることがあるのはとてもよくわかってしまうし、現在その状態に置かれていない人は、なかなかそこには想いが到らないだろうと言うのもわかる。例えばブログの記事なんてのはそれこそ見なければいいけれども、現実の社会生活において、どうしても逃げ出せない関係だってある。引きこもれば別かもしれないけれども、それでは寂しさは永久に解消できない。
でも、幸せそのものまでも見たくない、とは僕は思わない。その幸せが僕の何かと交換されていない限り、羨ましくは思うかもしれないけれど、あるいはその状態に嫉妬するかもしれないけれど、怒りには到達し得ない。幸せである中で、僕の何かを奪っているのであれば、それを良しとしているのであれば、我慢できない気持ちになることはある。
しかし。僕もその幸せではないかもしれないけれど、その仲間たちに他の種類の幸せをもらっていることに気がつく。決して等価ではないかもしれないけれど、相対化する必要はない。自分がもらっている幸せと、相手にあげている幸せ。一人一人で換算すると、常に収支は合わないかも知れないけれど、あげなければ、得られないものもある。いつか、幸せが回って帰ってきますように、と思うと、少し楽になった。
もらいっぱなしのずるい人だっているけれども、因果応報。とにかく、何を幸せとして生きていくか、と言うことについて、ただ一つの種類の幸せしか目に入らないのであれば、収支を合わせることもできないのではないかな、と思ったのです。
最近のやりとりについて、やりきれない思いを抱えるのは、そういった点に想いがあるからだと思う。
僕は、音楽をやっていて、幸せだったと思う。音楽が無かったら今ここにこうしているかどうかもわからない。