思考をする際の基本的な基準の変更による、思考そのものの変容について

震災以後に顕在化したと思うんだけど、物事に対する見方の変容が思考にも影響を及ぼす、というよりは現実の自分にとって好ましい解釈のために思考様式をねじ曲げる、という事がしばしばあるように思う。
多分、本人にとっては基準の変更として認識されているのだと思うのだけど、その基準の変更そのものが物事の前提を大きく変えている。基準が一貫している側から見ると、それは思考の変容だし、基準を変えた側から見ると、それは現実を適切に受認していないということになるのだと思う。
なので、これはイデオロギーの問題であるとも言える。どちらが正しいかはこうなると主観でしかなくて、議論をすること自体が無意味になるような相容れなさを持っている。

震災前後のような、大きな出来事を経験することで、どうしても変わってしまうことはある。宗教のしの字もなかったような人が子供を失った後に宗教に嵌ったりするような。

それは仕方ないことだし、一定の基準(それは最新の知見に基づいてアップデートはされるべきものだが)を保とうと努力している人ですら、それが出来なくなる瞬間はあるだろう。もちろん、僕も例外ではないだろう。

だから、以前/以後で変わってしまった人のことは大変残念ではあるんだけど、人間とはそういうものである、と思うしか無いのだろう。

それはとても残念なことだし、できれば避けたいことだ。諦めなければ、いつかこちら側に帰ってくるかもしれない。でも、こうも思う。果たしてこちら側は正しいのだろうか。現実を正しく見据えているのはあちら側ではないのだろうか。その思いはあれど、僕は自分の素になっている思考様式を信じるほかはない。その思考を保ち得ないような事件が訪れた時のために、人の変容をバカにしてはならない。ただ、それはその人を遠ざけることになる。そのことはとても悲しいことではある。