書き手もしんどいし、読み手もしんどいね

つまるところ、他者に向けて何かを発信すると言う行為そのものが、そういった要素を持っているということだ。
かつて、不特定多数に対して発信するということについては資格が必要だった。その資格とは状況に過ぎないけれども、売れない物書きは資格を持っているとは言えない。物書きがいて、編集者がいて、出版社があって。作家は普遍化された〜あるいはその特殊な〜幸せや苦しみや悲しみを一手に引き受け、言葉を搾り出し、賞賛と呪いの言葉を浴びつつ、発表し続ける。その苦しさと楽しさを自覚していることが作家としての条件なのであろう。
翻って、現在の誰でも不特定多数に言葉を浴びせることのできる状況と言うのは、たとえそれが個人の日記として書かれた物であっても、同様に賞賛と呪いの言葉を浴びなければならないという状況なのだろうか。無論、そうだ。「ねえ聞いて聞いて」、と言う。放送室の、マイクのスイッチが入っていることに気がつかなかったことを責めるつもりは無いけれども、それは放送されてしまうのだから。
僕は、幸せを語るな、とは思わない。思わないけれども、その行為は呪われてしかるべきなのだ。賞賛されるべきことと同じくらい。むしろ、商業的な、あるいは芸術的なものよりも、罪が重い。小説やドラマは、それが如何に事実に即していようが、ファンタジーであるし、そうでなくてはならないと思っているけれども、個人の体験そのものは、現実であり、その現実を消し去ることはできない。
呪われることを怖れて消してしまうような文章は、だから、本当に必要なのかどうか。その文章が例えば誰かを元気付けることが出来るとしたら、誰かを悲しませるとしても、怖れることは何も無い、と思う。何故だろう。呪われることを怖れるのであれば、書く事そのものを怖れるべきであり、書き方の問題でも内容の問題でもない。書き手の資格というものは、周囲の声を耳を塞いでシャットアウトすることでも容易に得られる。これも一つの覚悟であり、正対して立ち向かうこととそれほど変わりはしない。単なる自覚の問題として。
誰かの書いた文章を読むと言うのは魂を受け止める行為である。無論、そこに魂があればの話だが。世の中の文章の大部分には多かれ少なかれ魂は込められているとは思うけれども、その強さには大きな違いがあり、またその違いは読んで見なければわからない。強く込められた思いを期せずして受け取ってしまったとき、読み手にできる事は少ない。不幸にも、自分が書き手でもある場合にその作用として表出する自分と言うものは脆く、儚い。あるいは強く、切ない。
僕が未熟な書き手として、こうして何かを書いているというのもまた、僕の感じた喜びを、悲しみを、世の中への希望を、そして呪いを書いているということであるから、その文章によって引き起こされる何かを怖れてはいない。いや、そうではないな。怖れてはいる。そして、結果を受け止める、あるいは全力で逃げ出す覚悟は出来ている。そういった点で、僕はその言葉を呪った人も責められないし、ブログを消して去った人も責められない。そして、自分自身の卑怯さと適当さを自覚して、「登録する」ボタンを押すのだ。