分かり合うことを諦めると言うこと

ある種の人同士が分かり合うことが難しい、というより多分正確には不可能であろうということについては先の別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね - novtan別館で述べた通りなのですが、それと理解を諦めるか、と言うことは別問題だと思うのですよね。
理解・努力・諦念・受容・真摯・優しさ: あんたジャージでどこ行くのに書かれていることはもちろん間違ってはいないと思うけれども、理解させようと努力し続ける傲慢さと同じくらい、どうせわからないと諦める傲慢さと言うのもあると思うのです。
僕は、わからないという「状態」が生じることについては避けられえないと思っている。たとえその状態が解消したとしても、分かり合える部分は所詮言葉や他の何かで触れ合った部分に過ぎないけれども。相手が自分のことを理解すると同じように、自分が相手のことを理解することが出来ないと、わかり「合う」という言葉にはならないから、それゆえに、少なくとも自分の側の努力を諦めてはいけないと思う。とはいえ、自分の側の努力をしないまま相手にのみ理解を求めることは傲慢だと思う。
諦めるべきなのは、そういう、分かり合えない状態が存在することに対してじゃないかなあ。その上で、いつかその状態が動くことを信じる。あるいは、それによって人間関係が終わりとなることを諦めるかなんじゃないか。そこで相手に自分を理解させることを完全に諦めた、ということは、それだけの関係と割り切った、と言うことだろう。ただ、大部分の人間関係は、その程度の関係であり、それでよいのだとは思うけれども。