声の大きさと多数決とパブコメと

パブコメの絶対数が採択の基準にはならないのは十分承知の上で、それでも、これだけの人が憂慮しているのであれば、あるいは反対しているのであれば、そこには検討の価値がある、ということを理解してもらう、と言うのがパブコメをコピペでもいいから出そうと言うことの重要な主旨だと思うのです。

数が多ければいい、というのであれば、本件でいえばJASRACや各種コンテンツホルダーが組織的にパブコメを提出したときに、「賛成のパブコメの数が多かったからダウンロード違法化を進めます」という結果になることを受け入れなければなりません。また、締切り直前に非常にいいコメントを思いついたとして、人に呼びかけている時間がないから自分ひとりで提出した場合に、「あなたひとりしか出していないので受け入れられません」という対応を甘受しなければなりません。でも、そんなのいやですよね?

パブコメは数じゃないんだよ、兄貴! - bewaad institute@kasumigaseki

だから、数が結果に直結するのはおかしいよね、というのはその通りなんだけれども、数の多寡に意味がないとすることもまた短絡的な話であり、上の例であれば、ひとりしか出してないので「受け入れられない」と言うことはなくても「重要視されない」ということは十分にありえます。そして、今回の問題は、多くの人たちが、長い間重要視してきて、その問題を広く伝えてきて、その結果として結実したのがMiAUであり、パブコメ提出運動であるわけです。だから、コピペであっても、賛同している人の大部分はその意図するところを自分のモノとしているだろうし、ただ乗せられて出していると言うわけでもないと思っています。
もちろん、そうでない人、建前だけが重要な人だっていると思いますし、それは政治のレベルだってそうでしょう。これもまた絶対数ではなくて割合の問題であり、一人の歪んだ目的より多数の真摯な思いのほうが重要視できる一つの基準として、やっぱり数があるんじゃないでしょうか。
数がそのまま圧力にはなってしまってはいけないとは思いますが、それでも、思いの強さを伝えるのに数は一つの重要な要素なのではないかと思います。