「いい話」は思考能力を奪うよね

いい話だから許される的な発想は結構根強いみたいだけど、現代人の嗜みとしてはどうかと思うよね。水伝信じちゃうみたいなのも、まあ実際には信じてないんだけど、「本当かどうかはどうでもいいけどいい話しだからあってよい」というわけのわからない願望的な発想によって許されてしまうように錯覚している。けれど、そんなことはないよね。
よく、事実は小説より奇なりっていうけど、事実は多少脚色しても許されるけど、小説はわざとらしいドラマが非難される。それだけのことであって、事実が本当に事実のままであるなんて誰も保証してくれないよね。
いい話を信じちゃうってのは、他者に対するポーズでもある。自分はこういう感受性を持っているというアピール。本当はみんなでお互いのことをアホだと認定しなければならないのに、そうすると非人間的だと非難されることがあるよね。人間性ってのは歴史を経るごとにどんどん内容が変わっているはずなんだけど、なんで現代では停滞しなければならないんだろう。僕らは科学的思考と言う新たなツールを手に入れたはずなのに。まだ過程なのかもしれないけれど。
人間って難しい。もうちょっと単純に出来ていればいいのにね。