就職難世代として

簡単に、世代という言葉で括るのはよくないし、他の問題を無視することにも繋がるけれど、やっぱりそれなりに世代における問題もあると思うので、実感を示しておく。すべての問題が自己責任論に帰結するのは好まないし、愚痴を他者への責任の押し付けと分析されるのも一面的だと思うことをあらかじめ表明しつつ。
脱学歴を言われ始めた時代に育ち、バブル期に成長した僕らは、多分一部のトップ志向を除けば、就職のために良い大学に行くという発想はそれほどなかった。バブルの余韻で大学は増えている一方で、ちょうど若年人口の減少にさしかかる時期だ。約、全入時代である。
ところが、就職時期に、企業は採用を絞り、一部のトップ志向の間での競争が、その下にも降りてくる状態。企業は表面的なスペックを再び重視し始める。就職活動に対して、かなり真剣に取り組まないとまずいという状況を理解したときはかなり手遅れ気味。これは、就職というものに対する甘さでもあった。
かくして、なんとか滑り込んだ企業もバブルの余波でブラック化していたり、バブル期入社お荷物社員が新入社員をいびったりするわけだ。僕の近くでは幸いそんな話を聞かなかったけれど。そんな状況で耐えられなくなって転職、というほどは甘くなかった。就職があんなに大変なのに、転職が簡単なわけがない。ましてや客観的にみて手に職がついているわけもない1〜3年目に。中途は即戦力しかとらない時代。逃げ出してみたものの、行き着く先はワーキングプアだったとき、何が正解だったのか。
一方、まともな会社に滑り込めない組は、新卒という、本人にとっても、また社会的肩書きとしても大事な時期に、得られるはずのものが得られなかった。求人が十分あれば得られたものなんだから、ある程度不運と考えても罰は当たらないだろう。
残ったのは実力一本勝負な業種で身を立てること。これは、誰にでもできることではない。
日々、事務的な作業をこなし、多くを望まず生きていく、そういった仕事にマッチする人材は、弾き飛ばされ、あるいは、実力主義の職種の中で傷つけられてきたのではないか。
これらのことは、人間について、人生について、社会について、どう考えるべきかについてのスタンスによって、見方が変わるだろう。
僕は、すべての人が競争し、相対的な敗者(そして、敗者が最終的に行き着くところは真の敗者だ)を作り出さないとならない社会なんて、と思う。日本はまだましなのかもしれないけれどね。
できなかった、しなかった事が本当にすべきことだったかどうかなんて、本人にだって結果論でしかわからない。自己責任がどこまであるのかなんてよくわからない。世代論だって結局は結果論にすぎないから、正しくもあり、間違ってもいる。でも僕らの中に印象としては確かにあるし、それは、言い訳としても反省材料としても活用しなければならないと思う。でも愚痴くらいは言わせてほしいな。
今更過去をさかのぼれるわけでもない。なんとか、まともに仕事をできる状況にある僕が言えることではないかも知れないけれど、自己責任とか自己権利とかで簡単に終わらせて欲しくはない。