自己責任論と国家の責任

辛坊治郎が遭難した件。どうも彼は自己責任論者と見做されているようだけれども、明確なそれを示す話がない(イラク人質事件は微妙な模様)。
さて、こういう問題の時に、考えなければならないこと。愚行権に基づく(まあ愚行に限ったことではないが国民の)行動について、国家はコストを負担する。海難は基本無料だし、山岳の場合も民間が出動するに至らない(警察のみで完結する)場合は費用がかからない。これもある種の文化に対するコスト負担といっていいだろうけれども、危険なことを避けようとしている人から見ると納得感の少ない費用ではある。

だから「自己責任」なんだから助けなくていいよみたいな話出てくるんだけど、そういうわけにも行かない。こういう言い方するのもなんだが、一定量の愚行についてはそれを保証するのが社会のデザイン。大雨の日に河原でキャンプとか、アホかと言いたくなるようなことは沢山あるけれども、理由によらず救助が行われる、というのが正当な理由があっての行為の結果の遭難の救助を保証しているということでもある。ただし、その費用感が限度を超えると法律が変わったりする。

なので、僕たちは愚行権を認める一方で、出来ればそれを行う人が少なくなるようにしなければならない。何が愚行かなんて本当は個人の価値観の問題ではあるんだけど、社会は最大公約数でできている部分もあるのである程度基準が出てくることは仕方がない。

例えば、生活保護の金をパチンコにつぎ込んで困っている人について「自己責任」と責めるのは是か非か、という話と生活保護を打ち切るかどうかはまた別の問題であり、一定の要件を満たしていれば金は出るべきだし、かと言ってそれを使い果たして足りないといってもそれ以上は出ないというのもデザイン。で、こういう行為を野放しにしておくと社会のコスト負担が限度を超えて出るべきものがでなくなる、というのもまた真実だろう。

さいきんめっきり聞かないBIの話もそうだけど、制度設計は社会の構成員がある程度想定通りの動きをすることに依存している部分はある。そのバランスが大きく崩れると制度そのものが成り立たなくなる。そういう意味で、規範的な考え方にもとづいて人間の行動が非難されることはあるだろう。愚行への非難や悲劇的な結末が必要とされるのは規範を守る人々が守る理由を維持するための養分みたいなものだったりするかもしれない。それによってバランスがとれている部分はあるだろう。

自己責任論に必ずしも与すわけではないけれども、そういった考え方を唱える人は世に必要だと思うし、当人が自己責任の範疇と思われる遭難にあった場合であっても救助するというのが社会というものなんだと思う。