「何故?」に対する応答

書くことは思考の固着だというのは再三述べてきた。幸いにも僕はその思考が既に自分のものではないと知っている。いや、厳密には僕の一部ではあるけれど、練りあげて得られた理論でない限り、そのときの思考の一端を切り出したものにすぎず、将来にわたっては縛られ得ないものだ。
だから、そこに永続するロジックが存在するか否かについても保証の限りではない。
僕は、そうはいっても自分自身の中での一貫性を保とうとは思っている。趣味嗜好についてロジカルである必要性はないけれど、それ以外の言については。
ロジックの組立かたこそがその人の思考の根幹を為しているとすれば、発するに際して個別のロジックを必要としなかった不用意な言説の提示に対する「何故」と言う問い掛けは、根幹の提示要求である。
自分の思考と矛盾しない個別ロジックにより発せられた言であれば問いかけに対しての回答は容易である。そうでなければ、「何故」という問いかけに対して自らの根源的ロジックをもって答えなければならないのか。否、何故自分がそれを発したのか、個別ロジックの導出をすればよい。
それができないのは、(例えば差別意識のような)公に提示しづらい意識の表出であるのかもしれない。「何故」に応答できないことは、少なくともこのような視点で見られてしまうという事を意味するのではないか。
言うも地獄、言わぬも地獄、であればパブリックな場所への書き込みがすなわち地獄への入り口だ。共感には理由がいるけれど、説明不要なほどみんながあなたを知ってはいない。