ケータイ世代の視野の狭さ

世代論としては愚劣だと思わなくもないのは携帯世代というよりは携帯「しか」使わない世代的なものだと思っているからなんだけど、それはさておき。

今、ケータイを取り巻く世界では何が起きているのだろうか。知りたいと思っても、まとめサイトがない。PCとケータイは世界が分断されており、情報が入ってこない状態である。

http://journal.mycom.co.jp/series/mobilecom/001/index.html

それ、携帯使えよw「PC世代よ、ケータイコミュニケーションを知ろう」どころじゃないだろw
あえて世代論として、すごく雑感的に記すと、僕が携帯で我慢が出来ないのは、そのI/Fの劣悪さとスピード、そして何より単位時間(というより面積か)当たりの情報量なのであるが、携帯で満足している人にとってそこは重要ではないようだ。つか、僕らにとって、携帯は手段である。彼らにとって携帯は目的である。それだけのことだろう。
ポータブルなサイズとして、携帯は十分な大きさであり、しかし、僕らの求めるものには足りない。小さいということはそれが既に制約である。かといってPCを持ち歩くことはハンデである。この状態は多分メガネ上大画面プロジェクタが普及するとか脳直結デバイスとかにならない限り解消しないだろうし、携帯の終わりはそこだろう。
携帯であることに意味があるのではなく、単に一番リーズナブルで、一番小さくて、便利なデバイスであるに過ぎない。携帯上でのコミュニケーションなどPC上でのコミュニケーションの縮小再生産であるに過ぎない。
ただ、この「縮小」であるということには意味があるかもしれない。つまり、敷居が低いのだ。情報量の少なさも同様だ。みながPCでヘビーに情報収集し始めたら当然多大な格差がもたらされるだろう。きっと携帯の奴らを鼻で笑っている同世代はたくさんいるのだろうけれども、目的と手段が逆転している世界ではその価値観は役に立たないのだ。
つまり、あえて視野の狭さを選択し、コミュニケーションという目的に特化しているのが携帯世代であり、携帯にとっての読みやすさは情報量の少なさである。小説からマンガに娯楽が移行したとき、マンガが秘める情報量は小説のそれとは質が違うものの、単純に「字が減った」では表わせない多数の別の情報を含んでいた。果たして、携帯上にそれはあるか。携帯上でのコミュニケーションにおけるメタメッセージは未だ発展途上であるとも感じる。我々の世代が携帯をバカにしている間にそれは理解不能なまでに進化するかもしれない。
まあ、情報量減ったなあとしか感じられない間はPC世代と携帯世代の乖離は続くんだろう。少なくともWebサイトという点で考えると、画面の情報量よりもI/Fのダメさ加減の方がよっぽどマイナスなんだけど、それは行きつ戻りつを繰り返すスタイルの限界なのだろう。携帯文化とは、決して後ろに戻らず進み続けることの象徴としてあるのかもしれない。