知識の価値は

何でもまず「ぐぐれ」な時代になって、頭の中に覚えておかなくても外部記憶装置としてのウェブを使えばいいじゃん的な発想がよく見られるけれども、連想結合能力はウェブには頼ることが出来ない。まだ、なのかもしれないけれども。
「根拠は?」「勘!」という問答の時に、その勘ってのは実は経験に裏打ちされた何かであって、実際には説明可能な根拠があるけど言語化するのが面倒とか、言葉が足らないとかそういうことだったりすると思っているんだけど、その勘を裏付ける知識ってのは、積み重ねたものが突如として結びつくようなものであって、検索したら答えが出てきたっていうようなものではなかったりする。

なぜなら、ネットの時代、知識は誰でも簡単に拾えるようになったので、知識そのものに価値がなくなったからだ。
いや、それは言い方が違うな。
本当に物知りなのか、ネットで拾っただけの知識なのか見分けることが困難になったからだ。ちょこちょこっと検索して、それを散りばめれば物知りに見える文章は作れる。

「知っている」それ自体にはもはや何の価値もない - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

ひけらかす、という意味での知識は確かに意味を失いつつある。少なくとも、対象が明らかなのであれば。「これ知ってる?」という問いはリアルタイムに発せられていなければほとんど無意味だ。まあ、知らないっていうのもコミュニケーションの一環だったりするけど。
この後に上げられた「イノセンス」の話でも衒学趣味の日常会話がなされるなんてことが描写されているみたいだけど、脳がネットに直結していたとして、そんな会話が出来る自分は想像できない。だって、どうやって古今東西の物語からその場に相応しいセリフを持って繰ればよいかわからないもの。頭の中の記憶には言語化しづらいものも含めて大量のメタ情報を同時に持っているはずだ。そこが記録と知識の違いである、と思う。連想記憶術なんてのもメタ情報を上手く利用しているに違いない。かくして、そのメタ情報同士の結びつきが勘という一つの帰結を迎えるわけだ。もちろん、実証的研究をした上で言っているわけでもない適当仮説だけどw
英語の試験なんて辞書引ければよいのになんて思っていた学生時代。それはそれで一理合ったと思うけど、実務で膨大な量の英文を前にして、1から辞書なんか引いてられないからかいつまんで理解する程度には覚えてないといけないんだな、という認識はした。思うに試験のための暗記がイヤだっただけなんだろうな。
メタ情報の山だけ記憶されていれば、本体の記憶はアウトソースしてもよさそうに思うけどね。