抽象論を個別例の是非で批判するのがアレな方向性なのか

トリアージのときも思ったんだけど、抽象論とか概念論とかで何かを語るときに、その理解を助けるために使う例が適切かどうかが重要な問題である、ということに感覚的にコミットできるかどうかであっち側とこっち側にわかれるような気がしてきたな。

例に過ぎないのだから、個別の細かい話は捨象されている。そういう例に使うのは専門に扱っている歴史研究者などへの敬意に欠ける、という批判もみているが、「たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても」という話をするための例なのだから、どのような例を持ってきても、論争当事者に対しては「敬意に欠ける」のは仕方がない。

崎山伸夫のBlog - 歴史認識問題じゃないんだよね

これが仕方がなくない、という人との対立であるから、この点を仕方がないで済ませてしまうことができないんだけど、そうでないと思っている人は仕方がない以上の何物でもないから仕方がないんだという状態になるのは仕方がない。
無限ループですな。
この仕方がないという考え方はある種のモヒカン的議論空間では特に採用されがちであり、往々にして個を救わないことを原則としがちであるから、個を救うことが重要な別の原則と対立する。実は個を救わないのはその言説の原則の上でだけであり、原則に基づいた個別対応の中で救うことを目指していることがほとんどなのだが、どうしてもそこには切捨てが発生する。もちろん、個を救うことが原則という側には、その原則を単純に適用すると全体がかえって悲惨なことになる罠が潜んでいて、それでも、その単純さはあくまで原則の中だけで、実際には個を救うことで全体にコミットしていこうという話になるはず。なんだけど、原則同士の対立だけがクローズアップされてしまう。
なんでそうなるかということをよく象徴しているのがこの手の無限ループな議論。結局のところ、相容れないというのは自分の体験から言っても明らかであり、相容れない以上は誰が何を言っても無駄である。少なくとも、原則に拘泥している限りは。
話が無断リンク禁止、であっても血液型性格診断であっても一緒だ(内容のレベルはともかく)。
個人的には原則の確認をするのに個別の「言葉の使い方」にこだわるのは現実的な解を出すことを妨げるための行為、あるいはその解を受け入れたいためのもっとも楽で効果的な反論(受けた側は反論になっていないと思うが同じ方向を向いている人にはゆるがせのない反論)じゃないかと思うこともあるんだけど、どうかな。
ま、今回の件はちょっと毛色が違う面もあるなとは思うのですが。しかるべき発言力を持った人は(みんなの)言論の自由を守るために(個人の)言論の自由が制限されうる面がある、と思ったりする。最近はこのしかるべき発言力というのが社会的な肩書きだけじゃなくてある種の言論集団にも生まれてきているような気がするのでそのへんうまくやってほしいものだけれども。