勉強ができると微妙なポジションになることについて
まじめに考えてみよう。とはいえ、これも繰り返し語られる話題だろうしいまさらだけど。
学校に迎合している
学校に行く目的は?勉強することです。その表面上の目的に対して、勉強ができるというのは全力でコミットしているように見える。社会の犬というやつですな。いい子ちゃんは嫌われるとか、一番の目的を軽くクリアしやがってとか。
リターンの差異
運動ができたり音楽ができたりしても嫌われづらいのは、突出してたらヒーローだし、突出してなかったらその有効期限はせいぜい学生の間だけ。勉強ができることほどダイレクトに人生にかかわることは少ないし、かかわるほどの才能は必ず努力が目に見える。
先生のひいき
まあそりゃあ教育者としては生徒が学問で大成してほしいと思う部分はあるよね。
家で怒られない
これは大概誤解なんだけど、勉強しろだなんだとおうちでうざい親に怒られないやつはいいよなー的な風に思われていたり。実際には親というのは常にうるさいものです。
他人に配慮しない
誰かが言ってたけど。なんつーかね、かけっこで一番とかは目に見えて、というか見せ付けるしかないものだけど、テストの点数も一緒だよね。できない人をバカにしなければいいと思うのだけど。自分よりいい点とってるやつが「親に怒られる」とか言ってたら確かにむかつくことはわからんでもないけどw
本当に「勉強ができた」から疎外されたのか?
僕もどっちかというとそっち側の人間(いじめられフラグが1加算されました!)なのでそういう気持ちになるのはわからないでもないんだけど、今思うにそれなりに自分の性格上の問題もあるよなあと思わなくもない。高校以降一切そういうのがなかったのは辛酸なめてきた人の集団だったからかもしれないけれどね。
真相は闇。