アートの手段と目的

なかなかしびれます。

アートをやろうとした結果、何かとぶつかったときに覚悟が要求されたり、戦う必要があったりするだけだ。それらは結果だ。目的じゃない。順番を逆転させちゃいけないよ。そういうのを「文士様気取り」とか「70年代ロック」として揶揄してるつもり。

はてな

闘争そのものがアート、という類のアートも無くはないし、アートが闘争の手段になっている、という類のものもある。そういう向きからしてみれば、陵辱エロゲもセクシャルマイノリティーに理解を、解放を、という主張も出来るんだろうけど。
アートとして何かをやるということは、結構な割合で反社会的な行為になったりするのでそういう意味ではアートをやるための覚悟、というのは必要かもしれない。
社会と闘争するのが目的のアートから芳しい腐臭が漂ってきたとしても、表現としてアートを選んだ以上、目的とは関係なくすばらしいものが生まれる可能性はあるからやること自体は否定すべきではないと思う。
でも、「覚悟しているから、戦っているからアート」というのはそういう目的がある人がアートとはなんぞやと勝手に再定義しているみたいで気持ち悪いよね。