内心の差別心を指摘してなんか意味あるのかな?

「差別心があるお前は最低だがそんなお前を俺は許すぞー」だって差別というか蔑視の一種だよねと思う僕としては「〜を見過ごすのは内心の差別心の表れ」みたいなのをみてしまうとなんかもやもやするわけ。
社会による構造的差別は問題だし、個々の差別心の表明が社会の構造の元になることはあるから公言することはよくないとは思う。職業蔑視とか性差別とかは特にね。
だから「イエスかノーで答えよ。イエスまたはノーコメントは差別心の露呈だ」みたいな問いは危険だし、そのたぐいの問いを発することのできる人はどんな犠牲を払っても(それは本来指示されるべき相手の被差別者に迷惑がられたり、最悪実害を与えることすらある)世の中の認識を変えるべきだ、くらいの信念を持って人生を賭ける人くらいじゃないかと思う。大げさかもしれないけれども。

なんでもかんでもこの手の「差別だ」話にしてしまうとどんどん言葉は軽くなるし、その分簡単に反発され、あるいは差別じゃないよいいんだよ、という認識も広がっちゃって本丸まで軽みを帯びる。

尊重されるべき個々の価値観に含まれる差別心はそれが世間に対してあからさまに表明されない限り内心として保護されるべきだし、その枠を超えた、現代に生きるものとして改めるべき差別心は無くしていくべきだけど、その扱いは慎重かつ本気であるべきと思うな。

もちろんプライベートではカジュアルな議論でもよいけど昨今のウェブは世間だ。