冤罪とTwitter

痴漢冤罪と、ネットでの名誉棄損冤罪はちょっとだけ似ている。ちょっとね。本人にはまったくそんな意思もないし、客観的にも証拠といえるほどのことがないのに自称被害者の意思だけで訴えられてしまう、みたいなところが。明らかに冤罪被害者に対しての嫌がらせだったらまだいい…いやよくない…けれども、本当に勘違いだったときに罪を問われた側からするとものすごい事故みたいなものでありますな。
ところで、Twitterで公開捜査、的な話が話題になった。
Twitterでひき逃げ犯を公開捜査の是非 - Togetter
この話も根が同じ。善意と事実のみで行われたことであればなかなか問題にしづらいけど、悪意と嘘で行われたらものすごい問題であるという正邪のギャップというか、正義が負担するコストというか、そういうのが大きすぎる。99%の善意を1%の嘘が台無しにする、というパターンですね。そして、正義を遂行する側は、1%の嘘は99%の正義のためなら些細なことだと感じてしまう、という点でも大変危ない。何しろ、正義を遂行する側はそれが真実だということを確信していますし、たいていの場合、事実でもあるはず。「だから問題ない」というのはしかしその人の主観に過ぎず、周りの人は真実だかどうだかわからないものを信じて行動することを要請されます。情報リテラシーの観点から言えば、このような他人を罪に陥れるような未確認情報は例え真実性があっても相手にしないのが正しいのでしょう。そもそも現行犯以外民間人は逮捕できないし、広く捜査を呼びかけてよいんだっけ。
警察は信用できない、とか、今を逃すと解決が遅くなってしまう、とか、そういう犯罪被害者の焦りというのはあるかもしれないけれども、法治国家としてなりたっているわが国ではそういう職分を持つ人に捜査を委ねることも国民としてのありようだと思うわけですな。逆に、この手のやり方を可能だと考えると、ネット民の忌避するところである冤罪被害を簡単に作れてしまう。人を陥れるやり方としてこれほど効果的なものはないし、かつて手作りウェブページでそういうことをやっていたときに比べると伝播力は段違いになっています。
警察もその力を疑われるような失態を何度も繰り返しているという事実はありますが、われわれがすべきなのは、警察の捜査力を高めるとともに、透明性を上げ、捏造を防ぎ、失敗を隠蔽する動機になる減点主義的なものを減らしていくように働きかけることで治安を維持することであって、一般市民が捜査権を持つようになることではないと思うんだよね。密告社会は勘弁なのです。