作家は文化の担い手か

音楽だってそうだけど、アートとエンターテイメントの間には何かの違いがある。まれに両方の要素を兼ね備えていることはあれども。そして、アートとエンターテイメントの間に貴賤はない。僕は後者が好きだ…いや、それを分類するのは僕ではなく後世の人だけど。

さて、エンターテイメントは文化か。まあ文化だろう。ではそれを担っているのは作家か。それは微妙。あえていうなら時代がエンターテイメントを担っている。人間としての主体はプロデューサーだろう。秋元康からつんくから秋元康(いろいろ省略した
小説であれば出版社なのかな。

もちろん、起点になるのが偉大な才能を持った巨人であることはあるし、たいていの場合はそうだろうけど、ムーブメントができあがって以降の書き手はその拡大再生産にすぎないことが大半である。ただ、芸術って難しいよね。必ずしもパイオニアが最高峰ではない。むしろ作品としては微妙で、そのジャンルのエッセンスを芸術に昇華させるのは後追いだったりして。

初めから芸術を志向しているジャンル(純文学とか現代音楽とか)が商業的に成功するのは一握りだと思うけど、そうじゃないジャンルでも成功するのは一部だし、成功したことが自分の存在意義を高めている気分にはなるよね。だからそのことにプライドを持つのはいいことだとは思う。のだけれども。

商業的な実績を文化的な功績というかというとそうじゃないよね、って思う人が多いかと思う。じゃあ今の文化ってなに、という問いに今をいきる僕たちは答えづらい。でもまあ今ここにあるものが今の文化だろう。冒頭で述べたとおり、エンターテイメントも文化だ。だから極端にいうと大半の作家は娯楽の歯車である。先生なんて存在ではない。

だからどうということはない。芸術的な要請が内から滲み出てこない僕が仮に作家になるならば、時代の要請に合わせたエンターテイメントでベストセラーを書いて成功者になりたい。先生なんて呼ばれたくもないけど。