合理性・論理性による正しい選択は担保されている前提ではない

憲法記念日にもなると憲法改正がどうのこうのとか毎年議論されますね。
ちょっと話題になった自民党の改正案や徴兵制についての議論。論理性の観点から言っても、合理性の観点から言っても、おかしな話ではありますが、原発事故後巻き起こった出来事のことを省みるに、人が合理性を元に選択をすることは全く担保されていないことではあります。
特に政治という問題が絡むと、非合理であること自体が是であったりもします。極端な言い方をすると突き詰めた合理性とは最大多数の利益のために少数を積極的に犠牲にする考え方という側面がありますから、それはアタリマエのことではあります。
なので、合理性だけでは測れないいくつかのパラメーターを元に決められた妥当性によって判断されるというのが一般的な話。
社会情勢が不安定になればなるほど、合理性以外のパラメーターが決定に影響する比率が上がってくるのですよね。だから、徴兵制が導入されると言うこと自体がそこまで夢物語かというと、5年先だとわからない、としか言えないと思うわけです。であるならば、そもそも外部のパラメーターに影響されない絶対的な壁は必要で、それは現在の憲法では保証されているけど、自民党の改正案だとわからない、となればそこが議論の焦点になること自体はおかしくないと思います。

なんていうと、本気で徴兵制について心配しているみたいですが…心配していないつもりではあるんですが…

つい先日見かけた、児童ポルノを口実にしたインターネットの遮断が各国で起こっている話。これについても、実態のないものまでを含めた規制は原則反対、でも実際には自分が不利益を受けることないからなったらなったでしかたねーよ的なスタンスだったわけですね。ダウンロード違法化にしてもそう。でも、そこで杞憂だと思っていた事態が実際に生じるのを目にしてしまった。

現実的に無理な施策は取らない、というのは原発の問題において覆っているようにも思います。

さて、それが意味があるかどうかは別として、本当に徴兵制は導入されない、と言い切ってよいものでしょうか。