ひとりのため。

共有されるべき前提。その前提が共有されていないのであれば、議論にならないのは当然として、共有されていたとしてもその前提をその場でどう扱うかによって議論がかみ合わないこともあるのだろうなあ。

「みんなはひとりのため」を外した「ひとりはみんなのため」が暴走するとアレなことになる、という話です。「ひとりがみんなのためになることによってひとりのためになるべく社会を考える」がドラッカーの当初説いた経営学でした、「ひとりがみんなのためになることによってみんなのためになる」とするナチスの構想した社会を克服するべく。ナチスはドイツ社会の歴史的多様性を合理的に均一化し類的概念において一切を塗り潰しました。ヒトラーは「私たちの危機」をその切迫性を説き続けました。日々説かれる「私たちの危機」はその切迫性は現代日本社会においても他人事ではありません。「私たちの危機」において個人を単位とするネオリベ的な解があり、一方、共同体を単位とする解も、あるいは国家を単位とする解も存します。雑に言うなら。

HALTANさんへのマジレス(倫理の枷について) - 地を這う難破船

ここ最近のかみ合わない議論?を見ていて何故そうなるんだろう、と思っていたのですが、最大限両者を善意に解釈すると、

  • 「みんなはひとりのため」を外したらいかーん!全てにその視点を適用すべし!
  • 「みんなはひとりのため」は暗黙の前提!だけど物事を考るため、時にはその視点はおいておく

のかみ合わなさなんじゃないかと思った。

みんなのために人死にが出ることはやむをえない、そう思ってしまうことに私たちは後ろめたさを覚えています、それは倫理的なダブル・バインドであるのですが、資源の有限性を前提とする経済的な合理化はその二重拘束を倫理的な枷を解き放ちます。

HALTANさんへのマジレス(倫理の枷について) - 地を這う難破船

個人や人権という概念が発達してから、この問題は避けては通れないものになったのでしょう。今でこそ経済的な合理化という言い訳が必要になるのですが、かつては配分できる資源がかなり少なかったために問題外であった話なんだと思います。それが配分可能性の高まり(農業生産力のアップなど)に伴い問題とされる余裕が(主に今まで人と扱われていなかった側に)出てきた、そのことによって新たな倫理的枷が生まれた。自らに科した枷を留保なしに外すことはだから、

ただ一般的に取り扱うならそのことに留意しないと擬似問題でしかないだろうということです。あのとき「葛藤がない」と指摘した人があったのは、そのことです。すなわち、必ずしも人格的な非難でなく論点の提示であったのですが。

HALTANさんへのマジレス(倫理の枷について) - 地を這う難破船

となる。
先に示した対立は、繰り返しになりますが、前提を全てに必ず適用すべしというのと考えるときは外してみることも必要というのの対立だと思っています。そして、時には本当に限られた資源により、倫理の枷を外さなければならないことがあり、それがトリアージなどに繋がっている、と考える。sk-44さんは「全員平等に死ねば宜しいということでもまったくない」とおっしゃるし、それには同意したいけれども、時に「じゃあ平等に死ねばいいのか!」と詰問したくなる視点の押し付けがあることは否めないのではないでしょうか。
合理性をもって物事を説くときに、どのような倫理的な枷を必要とするのか。これはいよいよドラッガーを読んでみないといけないようです。