「新しい試みだから批判される」といって何かを擁護する人はコンプガチャの存在を留保なく肯定すると思ってよろしいか?

「嫌ならみなければいいじゃん」で済むものと「存在について疑義を投げかけるべき」ものにははっきりとは言えないが明らかなボーダーラインがあって、時としてそれは社会の都合で動いたり、正義の基準の社会的変遷に伴い変わっていくことはあるけれども、ラインがなくなることはないと思う。
よく、新規の仕組みや考え方を否定されるときに、その擁護ロジックとして「新しいから」「既存の勢力が困るから」ということのみを持ち出すことがある。でも、それが否定される要因としてあることを否定しないももの、やはり中身が社会的に妥当かどうかを評価することは必要だろう。
たとえば、既存の法が時代に合わないから、というような批判もある。もちろん、実際に時代遅れの法もあるだろう。けれども、その条文そのものが時代遅れであっても、その法が制定されるに至った背景や法の理念が古びているわけではないということも多々ある。社会の仕組みを論じるのに、条文という即物的なもの「だけに」依拠するのは大変危険だと思っている。
だから、「新しいもの」はそういった社会的倫理的批判を乗り越えることができないと根付かない。「嫌ならみなけりゃ|やらなきゃいい」という言葉で説明することをサボってしまったらどうしようもないことがある。社会的に認められたものの中身について見なきゃすむようなことはそれで済ましていい。2ちゃんですら、ある種の(ある程度認められている)正義のロジックがあって、その正義に依拠して「嫌なら見るな」が成立している。そして、未だにその正義では擁護できない誹謗中傷やヘイトスピーチの存在については悪とされ外部から攻撃されている。
要するに、批判されるにはそれが正当なものであっても不当なものであってもそれ相応に理由があって、その理由に堂々と反論した上で「嫌ならみなけりゃ|やらなきゃいい」と言うのであればわかる。「新しい試みだから批判される」というのは批判を全く受け止めていないのであるから、みなけりゃいい論法を使う前提を満たしていないと考える。

「新しい試みだから批判される」というのは、何事においても多分真実である。でも、それを唯一の根拠として批判対象を擁護するのは頭のネジが外れて考える能力を失っているようにしか思えない。