影響力は行動を制約するか

僕はする、と思っていますよ。
影響力があればあるほど、アホな発言は控えるべき。その影響力がアホな発言に伴うような人もいなくはないけど(その場合は遠慮のしようがない)、大抵の場合、立場とか、人気とか、そういう発言内容そのものではないところで得た影響力が悪い方向に働いてしまうことを恐れなければならないと思う。
もちろん、発言を積み重ねることによって影響力を得てきた人は、その発言を曲げることで影響力を失わせることだってあるとは思う。
インディーズで強烈DISでなおはせてきたラッパーがメジャーデビューしてそれをやめちゃったら人気なくなるよね的な。もっとも、メジャーデビューしてよいのか、という話ではある。という話でいうと、ウェブの世界は

  • 実際にもつ影響力が言論ではない人が言論的行為をしてしまうことが容易
  • 本来アングラな方向性の言論が不意にメジャーデビューしてしまうようなシステム

を持つことで、より影響力が悪く働く要素を強く持っています。

例えば、エゴサーチをして自分を非難している人を発見した場合、名指しで反論すべきか問題には、この本来持つ影響力の行使とのギャップ(現実の世界では例えばライブでの発言で特定の一般個人を非難することも、ファンが発言の相手を知り得ることもめったにないけど、ウェブではそうではない)が引き起こす想定外の事態がエゴサーチやめてという原則論からは発想しがたい要求を生んでいると言えます。

もう一つ。手段においては影響力のあるなしは同等でも、やはり影響力による力関係の差異と言うのは生まれてしまうこと。

単純な話、そこで少なくとも感情で動くことを自重できるかどうか、というところが影響力をもつ個人の人間力である部分はあると思います。

もっとも、これは影響力のない側にも同様に言えることなんですけどね。自分の影響力のなさを自認した上で安全地帯から名指しで他人を非難するというのは卑怯な話で。

問題を引き起こしたくなかったら他人を非難なぞしなければよろしい。

影響力を考慮して行動するのは、ウェブにおける議論の原則論ではないところの話です。だから、例えば名指し批判をエゴサーチで発見して言及をする、ということは影響力に関係なくOKだと思うし、じゃあ実際にするかどうかは個々人が自分の行為が引き起こすことに責任を取れるかどうかを見極めればいい話だと思います。それで大変なことになるのは最初に批判した側も含めて自己責任だよねと。

というような思考をするくらいには影響力というのは意識したほうがいいとは思います。

つまり、影響力によらず行為には責任があり、影響力の多寡によって結果責任の重大さは変わるからそれは意識すべき、ということですね。アタリマエのことですよね。

じゃあ、弱者は強者を非難できないのか、という話になりがちですが、ウェブって別に弱者が強者を安全地帯から非難するための装置じゃないんですよ。強者を非難することには(そうでないことも含めて)覚悟が必要な行為だし、それが正しい批判であれば、賛同者を得て結果的に弱者が強者に転化することもあるのがウェブです。他人を批判するのを軽く考えてるからそんなふうに文句をいいたくなるんじゃないかと思うけどね。