科学は冷たいのか

よく言われる、疑似科学代替医療は「人に優しい」一方で、正しい科学や標準医療は「人に冷たい」から疑似科学代替医療が幅を効かせることになるんだ、という話。

科学は冷たく、疑似科学は優しいのです。これでは、科学は疑似科学に対して全く勝ち目がありません。

科学は疑似科学に勝てません - バッタもん日記

でも、本当にそうなのかな?
思うに、科学や医療が人に「優しくない」「冷たい」という評価が起こってしまう理由は、結果についての責任の不平等さにあります。

例えば、医療は「正しい」からこそ、医者が間違ってはならないことを間違ってしまった場合の責任は重く問われます。しかしながら、医療に絶対はありませんから、不幸な結果はどうしても起こりうる。それについても結果を問われるような事例が増えたことから、防衛的な行動を取らざるを得なくなっている。
一方で、代替医療はそもそも医療として認められていないので、「騙されたほうが悪い」「患者の側の積極的医療ネグレクト」であり、代替医療側が責任を問われる可能性が低い。なので、防衛的な行動を取らず、患者を暖かい言葉で「騙す」ことが可能です。
このような非対称性は

科学は本来この世界を理解する手段であり、人間の夢を叶えることを第一の目的とはしておりません(大きな原動力となっているのは事実ですが)。ところが、疑似科学提唱者・信奉者は、科学を「人間の夢を叶えるお手軽で便利な魔法」と捉えているようです。魔法だから万能なのは当然です。
だからこそ、疑似科学は人間の心をひきつけてやまないのです。対して努力もせずに、時間も金も掛けずに夢を叶えてくれるのですから、支持されるのは当然です。

科学は疑似科学に勝てません - バッタもん日記

というニセ科学の問題につながります。でもちょっと待ってください。「お手軽で」を除けば科学って「人間の夢を叶える便利な魔法」を実現するためのものじゃなかったっけ?
現に、科学が一般的にニュースになるのは、そういう類のものがほとんどですよね。
実際に「冷たい」とされるのは「科学的思考方法」であり、それが目指す目的への評価ではないはずです。同様に「暖かい」とされるのは「疑似科学的弁法」であり、それがもたらす結果への評価ではありません。

「科学者は物事について確実だと言わない」というのは本当のことでもあり、嘘でもあります。科学者にとっての不確実性というのは99.99999%正しくても0.00001%誤りの可能性があれば100%だと言わない、というたぐいのものですから、それは100%正しいといっているのとほぼイコールなのですが、言葉の正確性としては100%正しいわけではない、となります。それだけのことである場合がかなり多いです。
であるならば、科学者として言い切れない部分を言い切ることで「暖かさ」を付与するのは誰の役目か。それが、オフィシャルには科学者ではないけれども、科学を信頼している人の仕事なのかもしれないと最近思うようになりました。
科学者であることが言葉に枷をかけるのであれば、その思いを代弁する人が必要なんですよ。そして、それは本来、きちんとした見識をもったマスメディアの重要な役割なのです。しかし、それは機能していないことは自明でありますから、どのように科学の正しさ、本当の暖かさを伝えていくかをニセ科学の跳梁跋扈を苦々しく思うみんなで考えていなかければならないかな、と。