科学と目的と工学

前回の記事には多数のツッコミをいただきました。
我ながらまずかったなと思うところも多数あります。ツッコミの多かったものについて補足がてら議論していきたいです。

それは科学ではなく工学なのでは?

「お手軽で」を除けば科学って「人間の夢を叶える便利な魔法」を実現するためのものじゃなかったっけ?
に対するコメントを多数いただきました。
僕も曖昧に科学に工学的な意味を含有して使っていますね。スミマセン。
科学と工学の違いについて面白いのは、過去に2009年にTony Hoare氏の行った講演が面白いです。
http://drj11.wordpress.com/2009/07/04/tony-hoare-man-of-science/
重要な退避として、「正しいか」と「信頼できるか」が上げられています。理論と実践みたいな部分もありますね。
さて、そういう違いはあれど、両者が目指すところは関連していると思っています。つまり、工学が工学として成り立つためには、科学的なアプローチというのは切り離せないということです。
ジェット機が飛ぶ原理ははっきりとしたことがまだわからないと聞きます。じゃあ、ジェット機は魔法なのか。そこに仮説も理論もないのか、というとそういうことではありませんよね。まさに「correctness」の部分で「わからない」のであり、「dependability」の部分で実用に供されているわけです。でも、ジェット機ニセ科学で飛んでいるわけではありません。
「飛行機が落ちるかも」といっている人にどのように「大丈夫だよ!」って説明できるか。科学的に解明されているんだよ!って言いたいところですが…実績があるから大丈夫でいいのでしょうか。大丈夫って言い切ってしまうことで工学はニセ科学にならないのでしょうか。あるいは、事故が起きたら。
僕はこの点については明確な答えを持っていません。ここまで言っといてそんなんでは、なんか怒られそうだけど…
現実があって後から理論が確立されるものもあるけれども、科学が真実を解き明かしたことで現実に魔法のような応用が可能なものってのもあると思うんですよね。そして、一つ一つの研究は結果としてそこに帰結するというのが夢想的人間である僕の科学イメージではあります。

科学者/メディアが言い切るのは間違いでは?

そうかもしれません。でも一般人たる僕は99.999%正しいと確信していたら正しいというだろうし、90%くらいでも「大丈夫」って言っちゃうと思います。無責任ですね。
でも、何かの行動をするための指針を求められた時に、曖昧なことばかり言っていてもしかたがないと思うことは仕事をしているとよくあるんじゃないかと。一方で、誰かが間違っていることを喧伝している現実があるとすると、そこに対して確信的なアプローチすべきではないか。
それは、相手との関係性によっても異なると思います。こういったブログでの啓蒙活動(になっているかは別としてね)において、確信めいたことをいうのは必ずしも正しいことではないと思っています。一方、家族や親しい友人が間違った方向に進もうとしているのであれば、自分の中の確信を全面的に相手に伝えると思います。
科学の冷たさも、疑似科学の優しさも、つまるところその距離感の問題であるとしたら、距離が縮められることで科学も暖かくなるんだと思っています。

そういう意味では、メディアが科学を如何なるアプローチで伝えていくべきなのか、はもう少し考え無くてはならないですね。距離感を縮め過ぎるのはある種の宗教的アプローチに近くなってしまうし、科学は本質的にはそういうものではないのだから、なおさら気をつけなければならない。でも、やっぱりそこをもう少し人間寄りにしていくことも必要なのかなとは思います。哲学の問題としてスタートして、方法論に帰結する道筋を作りたいし、それは本来は教育の役目なのかも知れませんが、失われた過去は取り戻せないので、今そのアプローチを持ち得ない人にどのやって伝えていくか、というのが最終的な問題なのでしょう。