ビジネスとして本来成立し得ない仕事における労働の価値と対価と夢

働くことに対する考え方は人それぞれで良いと思うのだが、こと待遇(対価)については少なくともそれが「労働」という枠にある場合においては法的にも規定がある通り、社会的な基準というものは存在する。
きちんと労働について学んでいればきちんとした理論と用語によって説明できるんだろうけど、そうでないので、社会人としての一般的と思われる認識を自分の言葉で述べることとする。なので、以下の話には認識相違はあるはずだが、とりあえず

この「好きなことを仕事にできているんだから、たとえ薄給であっても幸せだ」という考え方は、結果的にみんなを不幸にすると僕は思う。そもそも、仕事をして給料がもらえる根源的な理由は、その仕事を通して自分が経済的価値を生み出しているからにほかならない。どんなに仕事が苦しくて辛いものでも、生み出した経済的価値が少なければそれだけの給料しかもらえないし、逆に、どんなに仕事が楽で、ほとんど遊んでいるのと変わらないと労働者が思ったとしても、大きな経済的価値を生み出したのであればそれに見合うだけの給料をもらう権利がある。給料は、理不尽なことに耐えた我慢料ではない。好きだから、安い給料でもいいということは全然ない。

「好きなことを仕事にしてるんだから、薄給でも幸せ」という考えがみんなを不幸にする - 脱社畜ブログ

こはちょっと違って、労働である以上、仕事の生み出した価値ではなく、時間に対して給料が支払われるべきだと思う。これを正としてしまうと、少ない制作費しかもらえない=仕事の価値がそれしかないことをもって薄給で働かざるをえないことは正当化されてしまう。
だから、「価値に対する対価」なんてのは自爆するための爆弾でしかない場合がほとんどだよ。たいていの仕事では「あいつは一人前の仕事をしていない」ことによって労働時間をさっ引くことは認められない。同様に、素晴らしい成果によって想定以上の価値を生み出した結果を労働の対価としては還元しない。あくまでそれは一時報奨(単発の結果)や次の待遇(能力の評価)として還元される。

だから、労働の価値とは「その仕事における作業の価値×能力の評価」が概ね時給となり、実際の拘束時間(絶対的な労働量ではない)によって対価が支払われる。
問題は、「その仕事における作業の価値×能力の評価」が最低時給を下回るという現実があるということだろう。成果物の価値と作業の価値が見合っている場合、労働時間が計算通りに行かないのは経営の問題であるから、それを労働者に転嫁することはできない。でも、成果物の価値が作業の価値より低く評価される場合、仕事として成立しない。

そういう、本来ビジネスとして成り立っていないものがなぜ仕事として存在するのか。それは「やりたいから」である。ここに根本的な問題がある。

アニメ業界をやりたいからやる業界にしてしまったのは手塚治虫の罪の一つであるのかな。門外漢なんでそういう印象があると語るのとどめるが、つまるところ、はじめから採算性が無視されていたままビジネス化されたのであれば、それは金持ちの道楽としてしか本来成立しない。ところが、表現者であろうとする人間の欲求は、自己を犠牲にすることによってそれを成立させることを躊躇しなかったというわけだ。かくして、本質的には赤字のビジネスを黒字として成立させる方法論が確立してしまったと。

これはとても特殊な領域の問題であり、あまり一般論として成立しないのではないかと思う。求められる対価が上がるのであれば要らないよ、という程度の価値しかなければ仕事として正常化することはビジネスとしてのアニメ制作を破綻させるだろう。

そして、それが正しいのだと思う。粗製濫造されることがその安さのために評価されるということを果たして「表現者」は求めているのだろうか。そうではあるまい。特殊な業界だからこそ、「その仕事をやっていれば幸せ」などというレベルの人材は本来排除されるべきなのであると思う。その結果として、一部のトップクラスしかできない仕事になったとき、初めてプロフェッショナルという意識が芽生えるのではないか。もっとも、そのトップクラスが作ったトップクラスの「価値」ですら労働の対価を埋められるとは限らないが。

労働を正常化するということは、その価値に見合わない仕事をしている人や会社を社会から排除する、ということでもある。それをも避けてなおビジネスを成立させるのであれば、労働の時間から成果を切り離すしかなく、成果物に対する報酬(まあ作業請負ってことだ)の単価を下げるしかないんだろう。その場合、労働時間がいくらかかろうが、かかるまいが、報酬は一緒である。このことは、その業界において「労働者」として働くことは難しいことを意味している。

結局、好きな事を給料安くてもよいからやるのが幸せ、というのは労働者的発想ではないということだ。労働者だと思って働いているのならそれは思い込みで、であるならばさっさと辞めるべきだ。ところが辞めない。困った。その状態を正当化する理屈は一応先にで述べたとおりだが、その理屈は法的には厳密に言うと成立し得ない。実態として時間労働であるとき、時間に見合った対価が発生しないことは認められない。でもお金が出てくるわけではない。

利用し利用され、真っ黒なグレーの中で好きなことをやる。それが人生の選択であるときに、外野としてどう非難すれば良いのだろうか。お前のような奴が労働をダメにするんだ。夢なんて見ていないでとっとと捨てろ、と僕らはいうべきなのだろうか。