他人の人生に責任を持つこと

上司なんて商売をしていると、人生の帰路に立っている人たちになにがしかの直接的な働きかけをしなければならない時がしばしばやってくる。
「転職しようと思うんです」
少しずつ育ってきた後輩にいわれる。正直厄介払いができてラッキーって思うことはよくある。早い段階で転職を決意するのは、その仕事に適性がない場合がほとんどだ。たまに、仕事の内容と待遇が物足りないと言って辞める人もいる。そのうちのごく一部はどうしても引き止めたい人材だったりする。
僕の上司は「辞める手続きがめんどくさいんだよな。理由とかきちんと書かなきゃならないし変な理由だと怒られるし…」といいつつも、引き止めることはしない。曰く「人の人生に責任取れないから」。確かにそうだけど、人生の先輩としてのアドバイスくらいはしてもよかろう。なにしろあなたがネガティブいじりを繰り返したのが原因の一つなのだから…
ともあれ、直属の上司として、彼が転職しようとしている仕事は力不足であろうし、ここで育てることでなにがしかのモノにはなれるだろうという見込みをもって彼にアドバイスをする。様々な要因もあって結局会社にとどまる決断をしたのだが、上司は引きとめない方が良かったのではないかという。
結果としてどちらが正しいかなんてわからない。けれども、少なからず僕は他人の人生に責任を負うのだ。負ったから彼の人生のすべてを引き受けると言うことではない。しかし、彼が困った時にできる範囲で尽力するのは僕の使命だろう。
転職した同僚、起業した後輩、いろんな人に誘われる。一緒にやらないか。人を評価するのは難しく、その人生を背負う覚悟と言うのは大変なものだと思うけれど、そういうって僕を誘ってくる彼らは自分自身そして僕のことを信じているし、うまくいかないことを疑っていない。仮にうまくいかなかった時に責任をとる、というのではもちろんない。彼らは僕が僕自身で判断し決められる人間であることをことを知っているからだ。
まとめよう、あつまろう - Togetter
果たして、判断をするだけの材料がない領域において、他人の人生を左右するだけの方向付をしても良いのか。答えはイエスでもあり、ノーでもある。古来、無頼を気取るものの無責任さなんてアイデンティティみたいなものであるし、そもそものたれ死ぬのを厭わない人種なのである。社会においては成功者orゴミ屑のどちらかにしかなり得ず、他人に迷惑をかけても自分自身は生き延びようとする類の人種である。
だから、そう言う人に憧れる人間を止めるのは別の誰かだろう。
夢の実現と言う毒を飲んでしまった人はもはや一度死ぬしか後戻りできない。かの人にまともな友人がいてくれればそれでいい。いなかったとしたら不幸なことであるが。
だから、現実的に疑問があるような夢の後押しをする馬鹿野郎は責任を感じる必要はない。なにしろ無責任の代名詞として生きているのであるから。
しかし、責任は発生しないわけではない。うまくいかなかった結果恨まれるかもしれない。何気無く押したハンコに地の果てまで追いかけられるかもしれない。半狂乱の彼の恋人がドアの前で叫び続けるかもしれない。夢の大きさに比例して、結果の大きさは正にも負にも振れるだろう。
そんな状況を平気で冷たく切り捨てるのが正しく人非人としての表現者であり、逃亡してまでも結局自分のことだけが大事でいるべきなのだ。それは、先に述べた僕のような社会の歯車がもつ責任と同じでありながら違うところではある。
ただ、大した事をなし得てない人間がそのような責任のあり方と対峙する事は難しい。自分自身の人生に無責任になれるだけの力を持たない限り、たんなる戯言だし責任から逃亡する事を周囲が許さないだろう。
島田荘司歌野晶午を生み出したのはその無責任のゆえではなく、真反対の成し遂げたものの責任からだろう。無頼派の作家が冷たくも優しい人生相談を行うのも同様の事であろう。
無責任の極みを尽くした大宰は結局心中相手に対しても無責任に死さざるをえなかった。大事な決断について責任を負わないとは、それが他人のものであれ自分のものであれ、そういうことである。