吐かせのプロが社会にもたらす秩序と混乱

今回の乗っ取り脅迫書き込み事件はコンピュータ犯罪に対する警察力の未熟さを明らかにしただけではなく、もっと重大で重要な問題をわれわれの目の前に提示してくれた。
取り調べの可視化については相当抵抗があったというのはみなさんの記憶に新しいことだろう。その理由がスムーズな取り調べの阻害とかそういうものではなく、冤罪者を作る手口の開示を避けるためだったということがはっきりしたわけだ。
自白をさせることそのものは、悪いこととは言えない。きちんと捜査され、最後の決め手が犯人の自白によるものである事件は沢山あるだろう。しかし、その裏で、やってもいないことを自白させられる。
人間がこんな簡単に自分がやってないことを自白するという事実は警察にとっても恐怖を与える結果なのではないか。なにしろ彼らは確信を持って犯人にうたわせ、それをもとに有罪に持ち込むのである。自白を取ると言うのは勲章であり、その撃墜数を誇るものだっているだろう。しかし、自白はまやかしだったのではないか。何人の警察官がこの事件の結果を受け自問自答しただろうか。良心の呵責に耐えられない警官などみたくはないものだが…
実際に自白させたことによって解決した事件もあるだろう。しかし、犯罪を実際に犯していないものは、その突然の容疑者扱いに耐えられず、精神を崩壊させることは多いだろうし、覚悟の決まった犯罪者は嘘の自白などしないだろう。
そもそも、供述は証拠やヒントの一つでしかないのが本来の姿だし、尋問はそこから矛盾を引き出したり解決の緒を見つけ出すために行うべきことだろう。であるならば、なぜ可視化をできないのか。華麗なる尋問テクニックが単なる描いたシナリオの押し付けを意味するとしたら、警察官たる資格は果たしてあるのか。
僕はある程度テクニカルな問題があるのかなと思って甘くみていたところはあった。今回の事件の取り調べの実態を見て、その考え方は改めるべきと感じた。つまり、脅しに近い形の尋問はその耐性のないのものに効果的すぎて、その結果得られたものが正しい自白か判断できないと言う結果がはっきりと示された以上、取り調べを密室におく意味はほぼ崩壊しただろうと言うことだ。
誤認逮捕についても、担当者個々に責任を取らせる必要はないから、疑われた人の社会的な地位の回復を国家機関としての正式な職務として行わせるべきだ。冤罪であったら首にはできないとか、その間行った各種の手続きについては撤回を可能とするとか、そういう整備がある必要。自白の強要が取り調べ可視化によってマシになったとしても、誤認逮捕自体がなくなるわけでもない。社会としての名誉回復環境を真面目に(これは官民一体、特に報道は責任重く)考えていくことを、今後立ち向かうことが困難と予想される冤罪を量産しかねない犯罪への対応の柱の一つとしていく必要があるのではないかな。